()麻田連陽春(あさだのむらじやす)

 

      大宰府帥大伴卿、大納言に任けらえて京に入る時に臨み、府の官人ら、卿を筑前の国蘆城の駅家に餞する歌

  韓人の 衣染むといふ 紫の 心に染みて 思ほゆるかも  巻4−569 

  大和へ 君が発つ日の 近づけば 野に立つ鹿も 響めてぞ鳴く  巻4−570

        右の二首は大典麻田連陽春

 

      大伴君熊凝が歌二首 大典麻田陽春作

  国遠き 道の長手を おほほしく 今日や過ぎなむ 言どひもなく  巻5−884

  朝露の 消やすき我が身 他国に 過ぎかてぬかも 親の目を欲り  巻5−885


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前の二首は、天平二年(730)十一月に大納言に任ぜられた大伴旅人が上京するため、蘆城の駅家で送別会を催したときの歌。

このとき麻田連陽春は大典、大宰府の四等官、正七位上相当らしい。

蘆城の駅家跡(推定地)・・・福岡県筑紫野市阿志岐

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『続日本紀』神亀元年(724)五月の条には、多くの渡来系の人々が姓を賜ったという条文があり、「正八位上答本陽春に麻田連」とある。

また『東大寺文書』巻五「大宰府牒案」に、天平三年(731)三月従六位上大宰大典と見え、さらに、天平十一年(739)正月に、正六位上より外従五位下に昇叙とある。

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『懐風藻』に、「外従五位下石見守麻田陽春 一首」、五言の詩がある。

 和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作 一首

  近江惟帝里   近江は惟れ帝里

  裨叡寔神山   裨叡は寔に神山なり

  山静俗塵寂   山静かにして俗塵寂とし

  谷間真理専   谷間にして真理専らなり

  於穆我先考   於 穆たる我が先考

  独悟闡芳縁   独り悟って芳縁を闡く

  宝殿臨空構   宝殿 空に臨んで構へ

  梵鐘入風伝   梵鐘 風に入って伝ふ

  烟雲万古色   烟雲 万古の色

  松柏九冬堅   松柏 九冬堅し

  日月荏冉去   日月 荏冉として去り

  慈範独依々   慈範 独り依々たり

  寂莫精禅処   寂莫たる精禅の処

  俄為積草   俄かに積草のと為る

  古樹三秋落   古樹 三秋落ち

  寒花九月衰   寒花 九月衰ふ

  唯餘両楊樹   唯だ餘す 両楊樹

  孝鳥朝夕悲   孝鳥 朝夕悲しむ

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ところで、時代はすこし遡るが、

『日本書紀』天智天皇四年(665)秋八月に、「達率答本春初を遣して、城を長門国に築かしむ」とあり、

麻田陽春(答本陽春)と同姓の人物が登場している。

白村江に大敗した天智天皇は、唐・新羅軍の日本侵攻を恐れ各地に朝鮮式の城を築いた。

そのひとつがこの長門国の城であるが、百済滅亡により渡来した人であろう答本春初に築城をさせている。

答本春初は兵法に通じていたと『日本書紀』天智十年正月是月条に記される。

『懐風藻』、大友皇子の文中にも「広く学士沙宅紹明、塔本春初、・・・以て賓客となす」とあり、大友皇子との交流が記される。

この答本春初と答本陽春とは同じ一族であろうが、どんな関係だろう。親子だろうか。

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『新撰姓氏録』右京諸蕃下に、「麻田連、出自百済国朝鮮王、淮也」とある。

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