八日に、讃岐守安宿王等、出雲掾安宿奈杼麻呂が家に集ひて宴する歌二首 大君の 命畏み 於保の浦を そがひに見つつ 都へ上る 巻20−4472 右は掾安宿奈杼麻呂 うちひさす 都の人に 告げまくは 見し日のごとく ありと告げこそ 巻20−4473 右の一首は、守山背王が歌なり。主人安宿奈杼麻呂語りて云はく、 「奈杼麻呂、朝集使に差さえ、京師に入らむとす。これによりて、餞する日に、おのもおのも歌を作り、いささかに所心を陳ぶ」といふ。 ・・・・・ まず、題詞に登場する安宿王とは、 長屋王の子で母は藤原不比等の娘、父が謀反の罪に落ちたときにも死を免れ、天平勝宝三年(751)正四位下、播磨守、讃岐守を歴任。 天平勝宝九年(757)、橘奈良麻呂の変に坐し、佐渡に配流、後に許されて、宝亀四年(773)に高階真人の姓を賜った。 ・・・ 『続日本紀』天平神護元年正月に、「正六位上百済安宿公奈登麿に外従五位下」とある。 百済安宿公は、河内国安宿郡に居住する渡来系氏族である。 ・・・ 安宿・・・和名抄に「安須加倍」と訓む。 現在の大阪府羽曳野市南東部、柏原市南部および南河内郡太子町の一部、河内へ流れ出た大和川の南岸からその南にかけての地域。 雄略紀九年七月条に「飛鳥戸郡」、柏原市高井田の鳥坂寺跡出土瓦の文字に「飛鳥評」とあり、式内社「安宿郡・飛鳥戸神社」がある。 皇后安宿媛(藤原光明子)の名は、この地に由来する。
飛鳥戸神社・・・羽曳野市飛鳥 ・・・ 『新撰姓氏録』右京諸蕃下に、飛鳥戸氏は、百済の比有王、あるいは末多王の末裔とある。 |