()()()()()()()()()()()()()()()葛井連広成(ふぢゐのむらじひろなり)

 

    天平二年庚午に、勅して擢駿馬使大伴道足宿禰を遣はす時の歌一首

  奥山の 岩に苔生し 畏くも 問ひたまふかも 思ひあへなくに   巻6−962

      右は、勅使大伴道足宿禰に帥の家にして饗す。この日に、会集ふ衆諸、駅使葛井連広成を相誘ひて、「歌詞を作るべし」といふ。

      すなはち、広成声に応へて即ちこの歌を吟ふ。

 

    冬の十二月の十二日に、歌舞所の諸王・臣子等、葛井連広成が家に集ひて宴する歌二首

   比来、古舞盛りに興り、古歳漸に晩れぬ。理に、ともに古情を尽し、同じく古歌を唱ふべし。故に、この趣に擬へて、すなはち古曲二節を

   献る。風流意気の士、たまさかにこの集ひの中にあらば、争ひて念を発し、心々に古体に和せよ。

  我がやどの 梅咲きたりと 告げ遣らば 来と言ふに似たり 散りぬともよし   巻6−1011

  春されば ををりにををり うぐひすの 鳴く我が山斎ぞ やまず通はせ   巻6−1012

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『続日本紀』養老三年(719)閏七月の条に、「大外記従六位下白猪史広成を遣新羅使とす」とある。

白猪史広成とは、葛井連広成のこと。養老四年(720)五月の条に、白猪史への葛井連賜姓の記事がある。

広成は、若くして新羅との外交に関する役割を命じられた。

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また天平十五年(743)三月の条には、

「筑前国司言さく、新羅使ら・・・来朝すとまうす。是に、従五位下多治比真人土作、外従五位下葛井連広成を筑前に遣して、供客の事を検校せしむ。」

とある。

広成は新羅からの客の接待等を命じられて筑前の国へ出向いた。

この時、新羅は服属国としての貢献物を表す「調」という語を用いず「土毛くにつもの」と言い、また、文書にも品の数だけを記した無礼な内容であった。

そのため、検校のふたりは大変無礼であると都に連絡してきた。太政官は、新羅使の一行を放還せよと命じた。

このように、外交の重要な役割を葛井連広成は担っていた。

これより先の天平八年(736)、『万葉集』に145首の歌群を残す日本からの遣新羅使人たちは、このときとは逆に、新羅の国王に接見することなく、帰国

したようである。

当時、貢物ではなく土毛というおみやげを持ってきたとする新羅は、日本と対等の外交を望んでいたのだろうし、日本は宗主国意識があって、その関係は

険悪な国交になりつつあった。

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天平十五年(743)六月の条に、「外従五位下葛井連広成を備後守」とあり、同年七月の条に、「外従五位下葛井連広成に従五位下」とある。

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天平二十年(748)八月の『続日本紀』はすごい。

「車駕、散位従五位上葛井連広成の宅に幸したまふ。群臣を延きて宴飲し、日暮れて留り宿りたまふ。明くる日、広成とその室従五位下県犬養宿禰八重とに

並に正五位上を授けたまふ。是の日に、宮に還りたまふ。」

聖武天皇が広成の家にお見えになったという。そしてみんなで宴会をして酒に酔って、日が暮れてしまって、「悪いけど今夜ここに泊めて」とおっしゃった。

広成夫婦は精一杯のおもてなしをした。

翌朝、聖武天皇はおっしゃった。「広成夫婦に正五位上を授ける!」と。

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天平勝宝元年(749)八月の条に、「正五位上葛井連広成を(中宮省)少輔」とある。

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『懐風藻』に、「正五位下中宮少輔葛井連広成 二首」がある。

  奉和藤太政佳野之作 一首

    物外囂塵遠    物外 囂塵遠く

    山中幽隠親    山中 幽隠親し

    笛浦棲丹鳳    笛浦 丹鳳えお棲ましめ

    琴淵躍錦鱗    琴淵 錦鱗を躍らしむ

    月後楓声落    月後 楓声落ち

    風前松響陳    風前 松響陳ぶ

    開仁対山路    仁を開いて 山路に対し

    猟智賞河津    智を猟して 河津を賞す

  月夜坐河浜 一絶

    雲飛低玉柯    雲飛んで 玉柯に低れ

    月上動金波    月上って 金波を動かす

    落照曹王苑    落照 曹王の苑

    流光織女河    流光 織女の河

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葛井連について

『続日本紀』養老四年五月の条に、「白猪史の氏を改めて葛井の姓を賜ふ」とある。葛井氏はもと白猪史だった。

葛井連の葛井は、河内国志紀郡藤井に由来する。

その白猪史だが、延暦九年七月の津連真道らの上表によれば、

渡来した百済の辰孫王(貴須王の孫)の曾孫午定君の三子が分れて白猪史、船史、津史になったとある。

白猪史がのちの葛井連・葛井宿禰、船史がのちの船連・宮原宿禰、津史がのちの津連・菅野朝臣・津宿禰・中科宿禰となった。

延暦十年正月に、葛井連は葛井宿禰を賜姓とある。

『新撰姓氏録』右京諸蕃下には、

「葛井宿禰  菅野朝臣と同祖、塩君男、味散君之後也」とあり、「菅野朝臣 百済国、都慕王十世孫、貴首王之後也」とある。

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万葉集 渡来人 葛井連広成

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