()()()()()()()()()()()()()葛井連子老(ふぢゐのむらじこおゆ)

 

    壱岐の島に至りて、雪連宅満のたちまちに鬼病に遇ひて死去にし時に作る歌

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  天地と ともにもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上ゆ なづさひ来にて あらたまに 月日も来経ぬ

  雁がねも 継ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳の裾ひづち 夕霧に 衣手濡れて 幸くしも あるらむごとく 出で見

  つつ 待つらむものを 世間の 人の嘆きは 相思はぬ 君にあれやも 秋萩の 散らへる野辺の 初尾花 仮廬に葺きて 雲離れ 

  遠き国辺の 露霜の 寒き山辺に 宿りせるらむ   巻15−3691

      反歌二首

  はしけやし 妻も子どもも 高々に 待つらむ君や 山隠れぬる   巻15−3692

  黄葉の 散りなむ山に 宿りぬる 君を待つらむ 人し悲しも   巻15−3693

      右の三首は葛井連子老が作る挽歌

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葛井連子老は天平八年六月に派遣された遣新羅使人のひとり。

万葉集には遣新羅使人たちの歌145首の歌群を載せるが、この子老の3首は、壱岐で雪連宅満が鬼病で亡くなったときの挽歌である。

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葛井連について

『続日本紀』養老四年五月の条に、「白猪史の氏を改めて葛井の姓を賜ふ」とある。葛井氏はもと白猪史だった。

葛井連の葛井は、河内国志紀郡藤井に由来する。

その白猪史だが、延暦九年七月の津連真道らの上表によれば、

渡来した百済の辰孫王(貴須王の孫)の曾孫午定君の三子が分れて白猪史、船史、津史になったとある。

白猪史がのちの葛井連・葛井宿禰、船史がのちの船連・宮原宿禰、津史がのちの津連・菅野朝臣・津宿禰・中科宿禰となった。

延暦十年正月に、葛井連は葛井宿禰を賜姓とある。

『新撰姓氏録』右京諸蕃下には、

「葛井宿禰  菅野朝臣と同祖、塩君男、味散君之後也」とあり、「菅野朝臣 百済国、都慕王十世孫、貴首王之後也」とある。

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長崎県の壱岐島には、亡くなった雪連宅満の墓があり、今も地元の村人たちに墓は守られている。

近くの万葉公園(石田町城の辻)には、葛井連子老の歌ではないが、次の挽歌の歌碑がある。

  石田野に 宿りする君 家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ   巻15−3689

 

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万葉集 渡来人 葛井連子老

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