葛井連諸会、詔に応ふる歌一首 新しき 年の初めに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは 巻17−3925 ・・・・・ 万葉集を学ぶ仲間たちには年賀状によく引用される歌だが、 この歌は「天平十八年正月、白雪多に零り、地に積むこと数寸」とあり、左大臣橘諸兄、大納言藤原豊成らが太上天皇(元正天皇)の中宮で雪見の宴を 催したとき、葛井連諸会が奉った応詔歌である。 ・・・ 『続日本紀』に、天平十七年(745)四月に外従五位下とあり、この歌の翌年天平十九年四月には「外従五位下葛井連諸会を相模守とす」とある。 それより以前、天平七年(735)九月の条には、「・・・大史正六位下葛井連諸会・・・訴人の事を理らぬに坐せらる」とあり、殺人事件の訴訟の不受理を 理由とした処罰の記事に、諸会も上司とともに「坐せらる」とされている。訴えのことを審理しないで放置したことにより、怠慢の罪により罰せられたという ことだが、後に許されたとあるからよかった。だから相模守にもなれた。 天平宝字元年(757)五月には、従五位下とある。 ・・・ 葛井連について 『続日本紀』養老四年五月の条に、「白猪史の氏を改めて葛井の姓を賜ふ」とある。葛井氏はもと白猪史だった。 葛井連の葛井は、河内国志紀郡藤井に由来する。 その白猪史だが、延暦九年七月の津連真道らの上表によれば、 渡来した百済の辰孫王(貴須王の孫)の曾孫午定君の三子が分れて白猪史、船史、津史になったとある。 白猪史がのちの葛井連・葛井宿禰、船史がのちの船連・宮原宿禰、津史がのちの津連・菅野朝臣・津宿禰・中科宿禰となった。 延暦十年正月に、葛井連は葛井宿禰を賜姓とある。 『新撰姓氏録』右京諸蕃下には、 「葛井宿禰 菅野朝臣と同祖、塩君男、味散君之後也」とあり、「菅野朝臣 百済国、都慕王十世孫、貴首王之後也」とある。 |