大宰帥大伴卿が京に上りし後に、筑後守葛井連大成が悲嘆しびて作る歌一首 今よりは 城の山道は 寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを 巻4−576
梅花の歌三十二首 ・・・ 梅の花 今盛りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛りなり 巻5−820 筑後守葛井大夫
筑後守外従五位下葛井連大成、海人の釣舟を遙かに見て作る歌一首 海人娘子 玉求むらし 沖つ波 畏しき海に 舟出せりみゆ 巻6−1003 ・・・・・ 『続日本紀』神亀五年(728)五月の条に、「正六位上葛井連大成に外従五位下」とある。 『万葉集』の題詞から、天平二年頃に筑後守であったことを知る。 ・・・ 『万葉集』に、「藤井連」とのみ記された歌がある。 藤井連、遷任して京に上る時に、娘子が贈る歌一首 明日よりは 我れは恋ひむな 名欲山 岩踏み平し 君が越え去なば 巻9−1778 藤井連が和ふる歌一首 命をし ま幸くもがも 名欲山 岩踏み平し またまたも来む 巻9−1779 ・・・ 名欲山とは、大分県直入郡の山かといわれる。 この藤井連とは、筑後守の葛井連大成のこととも考えられるし、また、何度か九州に足を運んだ葛井連広成とも考えられる。 この歌二首が、単に旅立ちの儀礼歌ではなく、娘子との相聞歌であるなら、この藤井連は葛井連大成だと私は思う。 なぜなら、葛井連広成は、遣新羅使としてあるいは新羅使を迎えるためにこの九州に来てはいるけど、九州が国守などという任地ではなく、 さらに、広成の奥さまは犬養宿禰八重という将来は正五位上にまで昇る偉い女性だから、九州辺りでうっかり浮気もできんかったと思う。 ・・・ 大分県竹田市城原にある道の駅にはこんな大きな看板がある。 藤井連を送る娘子の歌とそれに和ふる歌である。この道の駅から北に見える山並みが名欲山(現在の木原山)という。 藤井連はあの山を踏み越えて都・平城京に帰っていった。きっと、またもまたも来なかったと思う。 ・・・ 葛井連について 『続日本紀』養老四年五月の条に、「白猪史の氏を改めて葛井の姓を賜ふ」とある。葛井氏はもと白猪史だった。 葛井連の葛井は、河内国志紀郡藤井に由来する。 その白猪史だが、延暦九年七月の津連真道らの上表によれば、 渡来した百済の辰孫王(貴須王の孫)の曾孫午定君の三子が分れて白猪史、船史、津史になったとある。 白猪史がのちの葛井連・葛井宿禰、船史がのちの船連・宮原宿禰、津史がのちの津連・菅野朝臣・津宿禰・中科宿禰となった。 延暦十年正月に、葛井連は葛井宿禰を賜姓とある。 『新撰姓氏録』右京諸蕃下には、 「葛井宿禰 菅野朝臣と同祖、塩君男、味散君之後也」とあり、「菅野朝臣 百済国、都慕王十世孫、貴首王之後也」とある。 |