()()()()()()()()()()()()()()文忌寸馬養(ふみのいみきうまかひ)

 

    右大臣橘家の宴の歌七首

  ・・・

  朝戸開けて 物思ふ時に 白露の 置ける秋萩 見えつつもとな   巻8−1579

  さを鹿の 来立ち鳴く野の 秋萩は 露霜負ひて 散りにしものを   巻8−1580

      右の二首は文忌寸馬養

  ・・・・・

『続日本紀』霊亀二年(716)四月の条に、

「詔して、壬申の年の功臣、・・・中略・・・、贈正四位上文忌寸禰麻呂が息正七位下馬養・・・等一十人に、田を賜ふこと各差有り。」とあり、

文忌寸馬養の父は壬申の乱で功績のあった禰麻呂であるが、その功績で息子の馬養が田を賜った。

馬養は、天平九年(737)九月の条に、「正六位上文忌寸馬養に外従五位下」とあり、後、中宮少進・主税頭・筑後守・鋳銭司長官を歴任、

天平宝字二年(758)八月の条に、「外従五位上文忌寸馬養に従五位下」とある。

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馬養の父文忌寸禰麻呂は、壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)が吉野を発って東国に向ったそのとき、

『日本書紀』天武天皇元年(672)六月の条に、

「是の時に、元より従へる者、草壁皇子、忍壁皇子、及び舎人朴井連雄君、縣犬養連大目、大伴連友國、稚櫻部臣五百瀬、書首根摩呂、山背部小田、

安斗連智徳、調首淡海の類、二十有餘人、女孺十有餘人なり。」とある。

この書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)が、文首根麻呂と同一人物なのである。ややこしい。

根麻呂は、壬申の乱で舎人として東行に従い、村国連男依等とともに数万の兵を率いて近江に進撃、功績を挙げた。

天武十二年に連、十四年に忌寸姓となり、慶雲四年十月従四位下にて没、功により正四位上を追贈された。

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天保二年(1832)、奈良県宇陀市榛原区八滝にある丘陵の南斜面から次の銘文を刻んだ墓誌が出土した。

「壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」

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文忌寸が百済系の渡来氏族であることは、つぎの坂上苅田麻呂らの上表の文からも読み取れる。

『続日本紀』延暦四年六月の条に、

右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麿ら表を上りて言さく、「臣らは、本是れ後漢霊帝の曾孫阿智王の後なり。漢の祚、魏に遷れるとき、

阿智王、神牛の教に因りて、出でて帯方に行きて忽ち宝帯の瑞を得たり。その像宮城に似たり。爰に国邑を建ててその人庶を育ふ。後、父兄

を召して告げて曰はく、「吾聞かくは、『東国に聖主有り』ときく。何ぞ帰従はざらむ。若し久しく此の処に居まば、恐るらくは覆滅せられむ」といへ

り。即ち母弟廷興徳と七姓の民を携れて、化に帰ひて来朝せり。是れ則ち誉田天皇の天下治めしし御世なり。是に阿智王奏して請ひて曰はく、

「臣が旧居は帯方に在り。人民の男女皆才藝有り。近者、百済・高麗の間に寓めり。心に猶豫を懐きて未だ去就を知らず。伏して願はくは、天

恩、使を遣して、追召さしめたまへ」といへり。乃ち勅して、臣八腹氏を遣して、分頭して発遣せしむ。その人の男女、落を挙りて使に随ひて尽く

来たりて、永く公民と為り。年を積み代を累ねて今に至れり。今諸国に在る漢人も亦是れその後なり。臣苅田麻呂ら、先祖の王族を失ひて、下

人の卑姓を蒙れり。望み請はくは、忌寸を改めて宿禰の姓を蒙り賜はらむことを。伏して願はくは、天恩矜察して、儻し聖聴を垂れたまはば、所

謂寒灰更煖になり、枯樹復栄るならむ。臣苅田麻呂ら、至望の誠に勝へず、輙ち表を奉りて聞す」とまうす。

詔して、これを許したまふ。坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口等の忌寸十姓一十六人に姓宿禰を賜ふ。

・・・

阿智使主の後として忌寸の十姓が宿禰を賜った記事である。

ところが、文忌寸はややこしい。

文忌寸には、東漢氏系の文直(書直)と、西文(書)首がある。いずれも、天武十二年に連、十四年に忌寸となるが、上述の苅田麻呂の上表で、

東漢氏系の文忌寸が宿禰を賜ったわけで、西文忌寸は、

『続日本紀』延暦十年四月の条に、

左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象ら言さく、「文忌寸ら、元二家有り。東文は直と称し、西文は首と号す。相比びて

事を行ふこと、その来れること遠し。今、東文は家を挙りて既に宿禰に登り、西文は恩に漏れて猶忌寸に沈めり。最弟ら幸に明時に逢ひて、曲

に察ることを蒙らずは、代を歴て後、理を申すとも由无からむ。伏して望まくは、同じく栄号を賜はりて永く孫謀を貽さむことを」とまうす。勅有りて、

その本系を責めしめたまふ。最弟ら言さく、「漢の高帝の後ろ鸞と曰ふ。鸞の後、王狗、転りて百済に至れり。百済の久素王の時、聖朝、使を

遣して、文人を徴し召きたまへり。久素王、即ち狗が孫王仁を貢りき。是、文・武生らが祖なり」とまうす。

是に、最弟と真象ら八人に姓宿禰を賜ふ。

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6年後に、西文氏も宿禰を賜ったのである。この上表によれば、文首は西文氏ということであるから、文忌寸禰麻呂と文忌寸馬養の親子は、

西文氏ということのなる。

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『新撰姓氏録撰』には、

右京諸蕃上に、「文忌寸  坂上大宿禰同祖。都賀直之後也」、「坂上大宿禰  後漢霊帝男、延王の後也」とあり、これは東漢氏系の文忌寸

である。

左京諸蕃上に、「文宿禰  出自漢、高皇帝之後、鸞王也」、「文忌寸  文宿禰同祖。宇爾古首之後也」とあり、これは西文氏である。

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