()()()()()()()()()()()()秦間満(はたのはしまろ)

    新羅に遣はさえし使人等、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情を慟みして思ひを陳べ、并せて所に当りて誦ふ古歌

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  夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ我が来る 妹が目を欲り   巻15−3589

      右の一首は秦間満

生駒山

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はたのままろとも読める。

天平八年(736)六月、新羅に向っていよいよ旅立つ時の歌であるが、難波の港で出航待ちのとき、やっぱり妹が恋しくて生駒山を越え、

奈良に帰ったという歌。

「韓国・釜山に行ってくるわ、と2〜3日前出ていったばかりやのに、まだ大阪にいたんかいな。しかも生駒山越えて、またうちに帰ってきた」

「ほんまに、この人、私のこと好きなんやわ」

「でも、はよ船に戻りや、風向きよかったらすぐ出発やろ。はよ戻らんと、上司に叱られるえ」

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秦忌寸 

秦忌寸はもと造姓で、応神朝に渡来した弓月君(融通王)の子孫と伝える一族で、山背国の葛野を本居とする。

天武十二年九月に連となり、ついで同十四年六月に忌寸となる。

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『新撰姓氏録』

 左京諸蕃上

   太秦公宿禰

    秦、始皇帝三世孫、孝武王之後也。男、功満王、仲哀天皇八年来朝。男、融通王一云弓月王、応神天皇十四年来朝、率百廿七縣百姓帰化、

    献金銀玉帛等物。仁徳天皇御世、以百廿七縣秦氏、分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰、秦王所献絲綿絹帛、朕服用柔軟、温暖如肌膚。

    賜姓波多公。次、登呂志公。秦公酒、雄略天皇御世、絲綿絹帛、委積如岳。天皇嘉之、賜号曰兎都萬佐。

   秦長蔵連

    太秦公同祖。融通王之後也。

   秦忌寸

    同王五世孫、丹照之後也。

   秦忌寸

    同王四世孫、大蔵秦公志勝之後也。

   秦造

    始皇帝五世孫、融通王之後也。

 右京諸蕃上

   秦忌寸

    功満王三世孫、秦公酒之後也。

   秦忌寸

    同上

   秦忌寸

    始皇帝十四世孫、尊義王之後也。

   秦忌寸

    始皇帝四世孫、功満王之後也。

   秦人

    秦公酒之後也。

 山城國諸蕃

   秦忌寸

    太秦公宿禰同祖。物智王・弓月王、応神天皇十四年来朝。上表更帰国、率百廿七縣佰姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之、賜大和

    朝津間腋上地居之焉。男、真徳王。次、普洞王。古記云、浦東君。仁徳天皇御世、賜姓曰波?。今秦字之訓也。次、雲師王。次、武良王。普洞王男、

    秦公酒、雄略天皇御世、奏称、普洞王時、秦氏惣被却略。今見在者、十不存一。請遣勅使検括招集。天皇、遣使小子部雷率大隈阿多隼人等、

    捜括鳩集。得秦氏九十二部一萬八千六百七十人、遂賜於酒。爰、率秦氏、養蚕織絹、盛?詣闕貢進。如岳如山、積蓄朝廷。天皇嘉之、特降寵

    命、賜号曰兎都萬佐。是盈積有利益之義。役諸秦氏、搆八丈大蔵於宮側、納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時、始置大蔵官員、以酒為

    長官。秦氏等一祖子孫、或就居住、或依行事、別為数腹。天平廿年、在京畿者、咸改賜伊美吉姓也。

   秦忌寸

    同帝十五世孫、川秦公之後也。

   秦忌寸

    同帝五世孫、弓月王之後也。

   秦冠

    同帝四世孫、法成王之後也。

 大和國諸蕃

   秦忌寸

    秦、始皇四世孫、功満王之後也。

 摂津國諸蕃

   秦忌寸

    太秦公宿禰同祖。功満王之後也。

   秦人

    秦忌寸、同祖。弓月王之後也。

 河内國諸蕃

   秦宿禰

    秦、始皇五世孫、融通王之後也。

   秦忌寸

    秦宿禰同祖。融通王之後也。

   秦人

    同祖。弓月王之後也。

   秦公

    始皇帝孫、孝徳王之後也。

   秦姓

    同帝十三世孫、然能解公之後也。

 和泉國諸蕃

   秦忌寸

    太秦公同祖、融通王之後也。

   秦勝

    同祖。

 

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万葉集 渡来人 秦間満

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