『万葉集』には渡来系といわれる人々の歌が詠まれている。

はたして、万葉集の歌人たちに「渡来歌人」という区分けが必要なのかどうか、ほんとうのところはよく分からない。

『万葉集』そのものが日本の倭歌を集めたものとすれば、

それは日本人による日本人の心を詠った歌集であるといえるのだろう。

学者によっては、初期万葉の歌が詠まれた時代背景は、七世紀中葉、あたかも

朝鮮半島動乱で、百済・高句麗の滅亡、新羅統一の後、多くの渡来人たちがこの国にやってきたとし、

その移入された半島や中国の文化が、万葉集に大きな影響を持ったと説く。

まるで渡来人たちが万葉歌を先導したかのような説すらある。

なかには、額田王、山上億良、柿本人麻呂・・・みんな渡来系の人たちなんだからという。

ほんまかなという疑問も持つけど、学者じゃないからよく分からない。でもちょっと興ざめすら感じる。

ひとまず、どんな人たちが万葉集の渡来歌人だろうとまとめてみた。

基本的は、『新撰姓氏録』の諸蕃といわれるグループの人たちだろうと区分したのだが。

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渡来歌人といわれる彼らの万葉歌と、『続日本紀』などによる人となりを紹介しよう。

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名前をクリックして!

麻田連陽春

安宿奈杼麻呂

板持連安麻呂

宇努首男人

馬史国人

生石村主真人

大蔵忌寸麻呂

吉田連宜

鞍作村主益人

内蔵忌寸縄麻呂

軍王

坂上忌寸人長

薛妙観

消奈行文

高丘河内連

調首淡海

刀理宣令

秦忌寸石竹

秦許遍麻呂

秦田麻呂

秦忌寸朝元

秦間満

秦忌寸八千島

葛井連大成

葛井連子老

葛井連広成

葛井連諸会

文忌寸馬養

雪連宅満

余明軍

 
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『新撰姓氏録』諸蕃の「蕃」とは、外者というか、帰化というか、渡来というか、

万葉の頃も、あきらかに区分された氏族であったことは事実である。それが差別用語であったことも事実であろう。

なかには、200年も300年も前に渡ってきた秦氏や漢氏のような大氏族も諸蕃に区分されている。

差別用語といったが、渡来を誇りとする、出自を自慢する氏族だったかもしれない。

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万葉の頃(奈良時代)、政治・経済・文化あらゆる分野で活躍する渡来人たちが多い。

大寺を建てる建築技術だって、先進の医術や医薬だって、仏教・仏教美術の世界にだって、

日本の国家形成に大きな力となってくれた人たちが渡来人であることは間違いがない。

だけど、

『万葉集』に、渡来人たちの歌は詠まれてはいるけど、

それが朝鮮半島の文化に先導された歌集なんてとても思いたくない。

やまとのことばで、五・七調で詠まれた万葉歌、どこにも半島の言葉の匂いなどない。

きれいな倭ことばで詠いあげた万葉歌、それは日本のずっとずっと古来からのことばの綴りなんだと思う。

・・・

渡来の人たちは、

はやく日本になじみ、あるいははやく日本人として再出発しようという思いで、

やまとことばを学び、美しいやまとことばで、万葉歌を詠んだと思う。

・・・・・・

『新撰姓氏録』序文に

天平勝宝年間、恩旨を以て諸蕃にもその願のままに賜姓せられ、これより氏姓の混乱が生じた。
即ち蕃俗と和俗との差別が困難となり、萬方の庶民が高貴の枝葉と名乗り、或いは三韓の蕃賓も
日本の神胤と称するに至った。・・・・・・

とある。

渡来の人たち、蕃と称せられることにはやはり抵抗があったのだろう。日本の姓名が欲しいとたびたび朝廷に願い出た。

渡来して百年以上も経て、来日三世・四世なのにいまだに蕃といわれる区分に不満もあった。

もうすっかり日本人なのに・・・。

現代社会にもいえることのようだが。

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万葉集 渡来歌人

万葉集を携えて

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