()()()()吉田連宜(きつたのむらじよろし)

 

    宜、啓す。

    伏して四月の六日の賜書を奉はる。跪きて封函を開き、拝みて芳藻を読む。心神の開朗にあること、泰初が月を懐くがごとし。鄙懐の除せらゆる

    こと、楽広が天を披くがごとし。

    辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停まらず、平生を憶ひて涙を落すがごときに至りては、ただし、達人は排に安みし、君子は悶へなし。

    伏して冀はくは、朝には懐の化を宣べ、暮には放亀の術を存め、張・趙を百代に架へ、松・喬を千齢に追ひたまはむことを。兼に垂示を奉はるに、

    梅苑の芳席に、群英藻をべ、松浦の玉潭に、仙媛の答を贈りたるは、杏壇各言の作に類ひ、衡皐税駕の篇に疑ふ。耽読吟諷し、戚謝歓怡す。

    宜が、主に恋ふる誠、誠犬馬に逾え、徳を仰ぐ心、心葵に同じ。しかれども、碧海地を分ち、白雲天を隔つ。いたづらに傾延を積み、いかにしてか

    労緒を慰めむ。孟秋節に膺る。伏して願はくは、万祐日に新たにあらむことを。

    今し相撲部領使に因せ、謹みて片紙を付く。

                                                                                  宜 謹啓 不次  

  

      諸人の梅花の歌に和へ奉る一首

  後れ居て 長恋せずは 御園生の 梅の花にも ならましものを   巻5−864

      松浦の仙媛の歌に和ふる一首

  君を待つ 松浦の浦の 娘子らは 常世の国の 海人娘子かも   巻5−865

      君を思ふこと尽きずして、重ねて題す二首

  はろはろに 思ほゆるかも 白雲の 千重に隔てる 筑紫の国は   巻5−866

  君が行き 日長くなりぬ 奈良道なる 山斎の木立も 神さびにけり   巻5−867

       天平二年七月十日

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この方、どうお読みすればいいのやら、「きちたのむらじよろし」、「きつたのむらじよろし」、「よしだのむらじよろし」、どれがよろしおすえ?

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大宰府の大伴旅人が送った「梅花歌」と「松浦川に遊ぶ序」の歌群と書簡に対する、奈良の都の吉田連宜からの返書と四首の歌である。

旅人と宜の高い教養の交友関係がうかがえる。

『続日本紀』文武天皇四年(700)八月の条に、

「僧恵俊に勅して還俗せしめたまふ。恵俊には姓は吉、名は宜。務広肆を授く。その藝を用ゐむが為なり。」とある。

僧であった恵俊が特殊な技術を持っているため、還俗させて朝廷に仕えよと勅があった。名前は吉宜きちよろしを授けられた。務広肆は従七位下相当。

和銅七年(714)正月には、「正六位下・・・山上臣億良・・・吉宜・・・に従五位下」とある。

養老五年(721)正月の元正天皇の詔に、

「百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢して、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし」とあって、「医術の従五位上吉宜」とある。

吉宜の特殊な技術とは医術であった。

神亀元年(724)五月に、吉田連の姓を賜る。

天平二年(730)三月には、その業の廃絶することを恐れ、弟子をとって伝習すべきことが命ぜられた。

後、天平五年(733)十二月に図書頭に、天平九年(737)九月に正五位下、天平十年(738)閏七月に典薬頭に任じられた。

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少し後の史料になるが、『日本文徳天皇実録』嘉祥三年(850)十一月の条に、

「従四位下治部大輔興世朝臣書主卒。書主右京人也。本姓吉田連。其先出自百済。祖正五位上図書頭兼内薬正相模介吉田連宜。・・・・」とある。

吉田連は後に興世朝臣となったようであるが、祖先は百済の出自という。

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ところが、『新撰姓氏録』は、左京皇別下に吉田連を載せるが、長文のため要約すると、

崇神天皇の代、任那国が奏上して、任那の東北に豊饒の地があるが、新羅と相争いが起り治めることができないという。将軍を遣わしてこの地を

治めてほしいという。天皇は塩乗津彦命を派遣した。この地では宰のことを吉といったので、吉氏を名乗った。塩乗津彦命は孝昭天皇皇子、天帯彦

国押人命四世孫の後也とある。

吉氏は、日本から任那に渡った皇族が祖という。

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『懐風藻』に、「正五位下図書頭吉田連宜 二首 年七十」がある。

  秋日於長王宅宴新羅客 一首

    西使言帰日    西使 ここに帰る日

    南登餞送秋    南登 餞送の秋

    人随蜀星遠    人は蜀星の遠きに随ひ

    驂帯断雲浮    驂は断雲の浮べるを帯ぶ

    一去殊郷国    一去 郷国を殊にし

    万里絶風牛    万里 風牛を断つ

    未尽新知趣    未だ新知の趣きを尽さず

    還作飛乖愁    還って飛乖の愁ひを作す

  従駕吉野宮 一首

    神居深亦静    神居 深うして 亦 静かなり

    勝地寂復幽    勝地 寂にして 復 幽かなり

    雲巻三舟谷    雲は巻く 三舟の谷

    霞開八石洲    霞は開く 八石の洲

    葉黄初送夏    葉 黄にして初めて夏を送り

    桂白早迎秋    桂 白うして早く秋を迎ふ

    今日夢淵上    今日 夢淵の上

    遺響千年流    遺響 千年に流る

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『万葉集』巻十六に、

      痩人を嗤咲ふ歌二首

  石麻呂に 我れ物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り喫せ   巻16−3853

  痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな  巻16−3854

        右は、吉田連老、字は石麻呂といふ。いはゆる仁敬が子なり。その老、人となりて、身体いたく痩せたり。

        多く喫ひ飲めども、形、飢饉に似たり。これによりて、大伴宿禰家持、いささかにこの歌を作りて、もちて

        戯咲を為す。

万葉の当時から、夏痩せには鰻がいいとされていたようで、痩せこけた石麻呂さん、鰻でも食べたらと家持が云う。だけど、鰻捕りで

川に流されるなよとちゃかす。

この石麻呂さんは仁敬さんの子という。仁敬さん、ひよっとして吉田連宜さんのことかと云われる。

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伝承料理研究家の奥村彪生さんは、万葉時代の鰻料理は、現在のような開いて蒲焼ではなく、一寸ほどに胴切りし、炭火で焼いた「筒焼き」という。

NHKの「日めくり万葉集」からの写真を借りるが、

 

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万葉集 渡来人 吉田連宜

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