()()()軍王(こにきしのおほきみ)

 

讃岐の国の安益の郡に幸す時に、軍王が山を見て作る歌

  霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば 玉だすき 懸けのよろしく

  遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に かへらひぬれば ますらをと 思へる我れも 草枕

  旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心   巻1−5 

      反歌

  山越しの 風を時じみ 寝る夜おちず 家にある妹を 懸けて偲ひつ   巻1−6

      右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。また軍王もいまだ詳らかにあらず。

      ただし、山上億良大夫が類聚歌林に曰はく、「記には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。

      一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめた

      まふ。すなはち作る歌云々』といふ」と。けだしここよりすなはち幸すか。

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この歌、左注には、舒明天皇は讃岐の国に行幸したこともないし、軍王という歌人もよくわからないとする。天皇は伊予の国には行ったらしいという。

『日本書紀』で確認をしてみると、舒明天皇十一年(639)十二月の条に、「十二月の己巳の朔壬午に、伊予温湯宮に幸す」とある。

さらに、左注にいう一書とは、どうやら『伊予国風土記』(逸文)の引用らしい。

「・・・天皇等の湯に幸行すと降りまししこと、五度なり。・・・中略・・・岡本の天皇と皇后と二躯を以ちて、一度と為す。時に、大殿戸に椹と臣木とあり。その木に

鵤と此米鳥と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に穂等を繋けて養ひたまひき。・・・」

ということで、舒明天皇は伊予の温泉への旅の途中、この讃岐の国に立ち寄ったものであろうとまとまったのであるが、さて軍王とは?

伊藤博『萬葉集全注』には、

「作者の軍王を、舒明三年(631)に入朝し斉明七年(661)に帰国した百済王子余豊璋と見、斉明七年斉明女帝が百済復興のため遠征した折、この地に

滞在したのではないかと推察する説もある。

ただし、軍王は余豊璋の子孫という説や、豊璋という見方は成立しないと説もあり、やはり通説どおり未詳の人物としておくのが無難とする見方もある。

それでも、軍王に余豊璋を擬する考えは、依然として貴重であろうと思う。」

・・・

『日本書紀』では余豊璋の動向をあれほど克明に描いているのに、『万葉集』は「軍王未詳也」の一言である。

これは、『万葉集』の編者が豊璋とは考えていなかったということではないだろうか、百済系王族の渡来人ではあるが・・・。

伊予の温泉

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