()()()()()()()()生石村主真人(おひしのすぐりまひと)

 

    生石村主真人が歌一首

  大汝 少彦名の いましけむ 志都の石室は 幾代経ぬらむ   巻3−355 

「志都の岩屋」  島根県邑智郡邑南町岩屋

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生石は大石とも。

『続日本紀』天平勝宝二年正月の条に、「正六位上大石村主真人に外従五位下」、天平十年四月の上階官人歴名に美濃少目とみえる。

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村主すぐりとは、古代の姓で、古代朝鮮語の村長を表す「スグリ」からきたという説が有力であるが、おもに渡来人のうち、下級の氏に与えられた。

『坂上系図』所引姓氏録逸文(阿智王条)に、

姓氏録第二十三巻に曰はく、阿智王、誉田天皇(応神)の御世に、本国の乱を避けて、母、並に妻子、母の弟、千興徳、七姓の漢人等を率て帰化り。

七姓とは第一を段といふ。是高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。次を李姓といふ。是、刑部史の祖なり。次をp郭姓といふ。

是、坂合部首、佐太首等の祖なり。次を朱姓といふ。是、小市、佐奈宜等の祖なり。次を多姓といふ。是、檜前調使等の祖なり。次をp姓といふ。是、

大和国宇太郡の佐波多村主、長幡部等の祖なり。次を高姓といふ。是、檜前村主の祖なり。天皇、其の来ける志を矜みたまひて、阿智王を号けて、

使主と為したまふ。仍りて大和国檜前郡郷を賜りて之に居れり。時に、阿智使主、奏して言さく、臣、入朝の時に、本郷の人民、往に離れ散れり。今聞

くに、あまねく高麗、百済、新羅等の国に在りと。望み請ふらくは、使を遣して喚び来さしめむとまうす。天皇、即ち使を遣して喚ばしめたまふ。大鷦鷯天皇

(仁徳)の御世に、落を挙つて随ひ来く。今の高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、

高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、

甲賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸村主、金作村主、尾張吹角村主等は、是、其の後なり。爾時、阿智王奏して、今来郡を建

むとまうす。後に改めて高市郡と号く。而れども人衆巨多くして、居所隘狭くなりぬ。更に諸国に分ち置けり。摂津、参河、近江、播磨、阿波等の漢人村

主、是なり。

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仁徳朝に渡来した30の村主氏族が並ぶが、大石村主もそのひとつである。

大石村主は仁徳天皇の御世に渡来した阿智王の後ということになる。

佐伯有清は、「大石の氏名は、後の近江国栗太郡大石(大津市大石中)の地名にもとづく。」という。(『新撰姓氏録の研究』考証篇第六「新撰姓氏録逸文」)

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