()()()()()()()()()()大蔵忌寸麻呂(おほくらのいみきまろ)

 

    竹敷の浦に船泊りする時に、おのもおのも心緒を陳べて作る歌十八首

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  竹敷の 宇敝可多山は 紅の 八しほの色に なりにけるかも   巻15−3703 

    右の一首は少判官

竹敷の浦  長崎県対馬

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少判官とは、天平八年(736)六月に派遣された遣新羅使人のひとり、大蔵忌寸麻呂のこと。

『続日本紀』天平九年(737)正月の条に、

遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂、少判官正七位上大蔵忌寸麻呂ら京に入る。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂、津嶋に泊りて

卒しぬ。副使従六位下大伴宿禰三中、病に染みて京に入ること得ず。

大蔵忌寸麻呂は、

天平勝宝三年(751)十一月に正六位上造東大寺司判官と見え、以後同六年(754)まで在任。同七歳三月造東大寺司次官として造寺司解に

署名。

『続日本紀』天平宝字二年(758)十一月の条に、丹波守外従五位下大蔵忌寸麻呂に従五位下、

宝亀三年(772)正月の条に、従五位上大蔵忌寸麻呂に正五位下。

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大蔵忌寸は、

東漢氏の一支族で大化前の朝廷の大蔵を管掌した氏である。

『古語拾遺』雄略天皇の条に、「・・・ 此より後、諸国の貢調、年年に盈ち溢れき。更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・

大蔵)を検校しめ、秦氏をして其の物を出納せしめ、東西の文氏をして、其の簿を勘へ録さしむ。是を以て、漢氏に姓を賜ひて、内蔵・大蔵と

為す。今、秦・漢の二氏をして、内蔵・大蔵の主鎰・蔵部と為す縁なり。」

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東漢氏は(倭漢氏とも) やまとのあやうじ

応神朝に来朝したと伝える阿智使主を祖とする渡来系の有力豪族。

『続日本紀』延暦四年六月の条に、

右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麿ら表を上りて言さく、「臣らは、本是れ後漢霊帝の曾孫阿智王の後なり。漢の祚、魏に遷れるとき、

阿智王、神牛の教に因りて、出でて帯方に行きて忽ち宝帯の瑞を得たり。その像宮城に似たり。爰に国邑を建ててその人庶を育ふ。後、父兄

を召して告げて曰はく、「吾聞かくは、『東国に聖主有り』ときく。何ぞ帰従はざらむ。若し久しく此の処に居まば、恐るらくは覆滅せられむ」といへ

り。即ち母弟廷興徳と七姓の民を携れて、化に帰ひて来朝せり。是れ則ち誉田天皇の天下治めしし御世なり。是に阿智王奏して請ひて曰はく、

「臣が旧居は帯方に在り。人民の男女皆才藝有り。近者、百済・高麗の間に寓めり。心に猶豫を懐きて未だ去就を知らず。伏して願はくは、天

恩、使を遣して、追召さしめたまへ」といへり。乃ち勅して、臣八腹氏を遣して、分頭して発遣せしむ。その人の男女、落を挙りて使に随ひて尽く

来たりて、永く公民と為り。年を積み代を累ねて今に至れり。今諸国に在る漢人も亦是れその後なり。臣苅田麻呂ら、先祖の王族を失ひて、下

人の卑姓を蒙れり。望み請はくは、忌寸を改めて宿禰の姓を蒙り賜はらむことを。伏して願はくは、天恩矜察して、儻し聖聴を垂れたまはば、所

謂寒灰更煖になり、枯樹復栄るならむ。臣苅田麻呂ら、至望の誠に勝へず、輙ち表を奉りて聞す」とまうす。

詔して、これを許したまふ。坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口等の忌寸十姓一十六人に姓宿禰を賜ふ。

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忌寸 いみき

天武十三年(684)に制定された八色の姓(真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置)の第四等。

『日本書紀』天武十四年(685)六月の条に、

「大倭連・葛城連・凡川内連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河内漢連・秦連・大隅直・書連、并て十一氏に、姓を賜ひて忌寸と曰ふ。」

主として、畿内の国造層氏族と渡来系氏族に与えられたが、後、渡来系氏族に与えられた。

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万葉集 渡来人 大蔵忌寸麻呂

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