()()()()()()()()()()()()()坂上忌寸人長(さかのうへのいみきひとをさ)

 

  紀伊の国に やまず通はむ 妻の杜 妻寄しこせに 妻といひながら   巻9−1679 

    右の一首は、或いは「坂上忌寸人長が作」といふ

妻の社  和歌山県橋本市妻

  ・・・・・

『続日本紀』延暦四年六月の条に、

右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麿ら表を上りて言さく、「臣らは、本是れ後漢霊帝の曾孫阿智王の後なり。漢の祚、魏に遷れるとき、

阿智王、神牛の教に因りて、出でて帯方に行きて忽ち宝帯の瑞を得たり。その像宮城に似たり。爰に国邑を建ててその人庶を育ふ。後、父兄

を召して告げて曰はく、「吾聞かくは、『東国に聖主有り』ときく。何ぞ帰従はざらむ。若し久しく此の処に居まば、恐るらくは覆滅せられむ」といへ

り。即ち母弟廷興徳と七姓の民を携れて、化に帰ひて来朝せり。是れ則ち誉田天皇の天下治めしし御世なり。是に阿智王奏して請ひて曰はく、

「臣が旧居は帯方に在り。人民の男女皆才藝有り。近者、百済・高麗の間に寓めり。心に猶豫を懐きて未だ去就を知らず。伏して願はくは、天

恩、使を遣して、追召さしめたまへ」といへり。乃ち勅して、臣八腹氏を遣して、分頭して発遣せしむ。その人の男女、落を挙りて使に随ひて尽く

来たりて、永く公民と為り。年を積み代を累ねて今に至れり。今諸国に在る漢人も亦是れその後なり。臣苅田麻呂ら、先祖の王族を失ひて、下

人の卑姓を蒙れり。望み請はくは、忌寸を改めて宿禰の姓を蒙り賜はらむことを。伏して願はくは、天恩矜察して、儻し聖聴を垂れたまはば、所

謂寒灰更煖になり、枯樹復栄るならむ。臣苅田麻呂ら、至望の誠に勝へず、輙ち表を奉りて聞す」とまうす。

詔して、これを許したまふ。坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口等の忌寸十姓一十六人に姓宿禰を賜ふ。

・・・

渡来歌人一覧に戻る

万葉集を携えて

万葉集 渡来人 坂上忌寸人長

inserted by FC2 system