()()()()消奈行文(せなのぎょうもん)

 

    佞人を謗る歌一首

  奈良山の 児手柏の 両面に かにもかくにも 佞人が伴   巻16−3836 

        右の歌一首は、博士、消奈行文大夫作る

コノテガシワ

・・・・・

『続日本紀』養老五年(721)正月の条に、

「詔して曰はく、〔文人・武人は国家の重みする所なり。医卜・方術は古今、斯れ崇ぶ。百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢して

特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし〕とのたまふ。因て、・・・・・ 第二の博士正七位上背奈公行文・・・に、各十五疋、糸十五、布三十端、

鍬二十口。」

『続日本紀』神亀四年十二月の条に、「正六位上背奈公行文に従五位下を授く」。

『懐風藻』に、「従五位下大学助背奈王行文 年六十二」として、詩二首がある。

  秋日於長王宅宴新羅客 一首

    嘉賓韻小雅    賓を嘉して小雅を韻し

    設席嘉大同    席を設けて大同を嘉す

    鑑流開筆海    流れを鑑て筆海を開き

    攀桂登談叢    桂を攀ぢて談叢に登る

    盃酒皆有月    盃酒 皆 月有り

    歌声共逐風    歌声 共に風を逐ふ

    何事専対士    何事ぞ 専対の士

    幸用李陵弓    幸しく李陵が弓を用ゐるは

  上巳禊飲 一首

    皇慈被万国    皇慈 万国に被り

    帝道沾群生    帝道 群生を沾す

    竹葉禊庭満    竹葉 禊庭に満ち

    桃花曲浦軽    桃花 曲浦に軽し

    雲浮天裏麗    雲 浮かんで天裏麗しく

    樹茂苑中栄    樹 茂つて苑中栄ゆ

    自顧試庸短    自ら顧みて庸短を試む

    何能継叡情    何んぞ能く叡情を継がん  

『続日本紀』天平勝宝二年(750)正月の条に、「従四位上肖奈王福信ら六人に高麗朝臣の姓を賜ふ。」

『続日本紀』延暦八年冬十月乙酉の条に、

「散位従三位高倉朝臣福信薨しぬ。福信は武蔵国高麗郡の人なり。本の姓は肖奈。その祖福徳、唐将李勣、平壌城を抜くに属りて、

国家に来帰きて、武蔵の人と為りき。福信は即ち福徳の孫なり。小年くして伯父肖奈行文に随ひて都に入りき。時に同輩と晩頭に石

上衢に往きて、相撲を遊戯す。巧にその力を用ゐて能くその敵に勝つ。遂に内裏に聞えて、召して内竪所に侍らしめ、是より名を着す。

初め右衛士大志に任し、稍くして遷りて、天平年中に外従五位下を授けられ、春宮亮に任せらる。聖武皇帝甚だ恩幸を加えたまふ。

勝宝の初、従四位紫微少弼に至る。本の姓を改めて高麗朝臣と賜ひ、信部大輔に遷さる。神護元年、従三位を授けられ、造宮卿を拝し、

兼ねて武蔵・近江の守を歴たり。宝亀十年、書を上りて言さく、「臣、聖化に投してより年歳已に深し。但し、新しき姓の栄、朝臣は分に

過ぐと雖も、旧俗の号、高麗は未だ除かれず。伏して乞はくは、高麗を改めて高倉とせむことを」とまうせり。詔して、これを許したまひき。

天応元年、弾正尹に遷され、武蔵守を兼ねたり。延暦四年、表を上りて身を乞ひ、散位を以て第に帰りき。薨しぬるとき、年八十一。」

『新撰姓氏録』左京諸蕃下に、「高麗朝臣、高句麗王、好台七世孫、延興王之後也」

佐伯有清は、「背奈氏の氏称とその一族」で、

肖奈公、肖奈王は高句麗の五部の一つ「消奴部」に由来する姓とする。福信の祖父で高句麗から渡来した福徳は、消奴(肖奴・肖奈)の

地域を本拠としていたので、肖奈福徳と称し、それが氏の名になったと推定している。

・・・

渡来歌人一覧に戻る

万葉集を携えて

万葉集 渡来人 消奈行文

inserted by FC2 system