()()()()()高丘河内連(たかをかのかふちのむらじ)

 

高丘河内連が歌二首

  故郷は 遠くもあらず 一重山 越ゆるがからに 思ひぞ我がせし   巻6−1038 

  我が背子と ふたりし居れば 山高み 里には月は 照らずともよし   巻6−1039

・・・・・

高丘連河内は、もとの名を楽浪河内といった。

『続日本紀』和銅五年(712)七月の条に、

播磨国大目従八位上楽浪河内、勤めて正倉を建てて、能く功績を効す。位一階を進め、あしぎぬ十匹、布二十端を賜ふ。

『続日本紀』養老五年(721)正月の条に、

従五位上佐為王、従五位下伊部王、正五位上紀朝臣男人・日下部宿禰老、従五位上山田史三方、従五位下山上臣億良・朝来直賀須夜・

紀朝臣清人、正六位上越智直広江・船連大魚・山口忌寸田主、正六位下楽浪河内、従六位下大宅朝臣兼麻呂、正七位上土師宿禰百村、

従七位下塩屋連吉麻呂・刀利宣令らに詔して、退朝の後、東宮に侍らしめたまふ。

『続日本紀』神亀元年(724)五月の条に、正六位下楽浪河内に高丘連。

『続日本紀』天平三年(731)正月の条に、高丘連河内に外従五位下。

『続日本紀』天平三年(731)九月の条に、外従五位下高丘連河内を右京亮とす。

『続日本紀』天平十四年(742)八月の条に、造営卿正四位下智努王、輔外従五位下高岡連河内ら四人を造離宮司とす。

『続日本紀』天平十八年(746)九月の条に、従五位下高丘連河内を伯耆守。

『続日本紀』天平勝宝六年(754)正月の条に、従五位上高丘連河内に正五位下。

『新撰姓氏録』河内国諸蕃に、「高丘宿禰  百済国公族、大夫高候之後、広陵高穆之後也」

・・・

なお、『万葉集』巻17−3926の左注に、高丘連河内の名が登場するが、歌は漏り失せたり、とする。

・・・

渡来歌人一覧に戻る

万葉集を携えて

万葉集 渡来人 高丘河内連

inserted by FC2 system