()()()()()()()()()()()()()()調首淡海(つきのおびとあふみ)

     大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊の国に幸す時の歌

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  あさもよし 紀伊人羨しも 真土山 行き来と見らむ 紀伊人羨しも   巻1−55

     右の一首は調首淡海

真土山  和歌山県橋本市隅田町

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万葉歌は、持統天皇の紀伊の国行幸のときの歌であるが、

それより以前、壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)が吉野を発って東国に向ったそのとき、

『日本書紀』天武天皇元年(672)六月の条に、

「是の時に、元より従へる者、草壁皇子、忍壁皇子、及び舎人朴井連雄君、縣犬養連大目、大伴連友國、稚櫻部臣五百瀬、書首根摩呂、山背部小田、

安斗連智徳、調首淡海の類、二十有餘人、女孺十有餘人なり。」とあり、

調首淡海は、天武天皇東行の最初からの従臣だった。

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『続日本紀』和銅二年(709)正月の条に、「正六位上調連淡海に従五位下」、和銅六年(713)四月の条に、「調連淡海に従五位上」、養老七年(723)

正月の条に、「従五位上調連淡海に正五位上」とある。

さらに、神亀四年(727)、聖武天皇と夫人藤原光明子に皇子が誕生したその祝の賜宴と賜物に、

「五位已上に綿賜ふこと差有り。累世の家の嫡子に、身に五位已上を帯ぶ者に、別にあしぎぬ十疋を加ふ。但し、正五位上調連淡海、従五位上大倭

忌寸五百足の二人は、年歯高きに居りて、この例に入ることを得。」とある。

調連淡海は、高齢だから特に優遇されたようである。壬申の乱の天武天皇東行のとき淡海20歳とすれば、聖武天皇のこの時75歳になる。

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『新撰姓氏録』左京諸蕃下に、

「調連  百済国、努理使主後也。応神天皇御世、帰化。孫、阿久太男、彌和。次、賀夜。次、麻利。彌和、顕宗天皇御世、蚕織献?絹之様。仍賜調首姓。」

河内国諸蕃に、「調日佐  同水海連 (百済国人、努理使主之後也)」

東漢氏の一族の調忌寸とは別氏である。

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万葉集 渡来人 調首淡海

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