正月も美濃と近江や閏月

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司馬遼太郎の『街道をゆく』24近江散策の「寝物語の里」を引用すると、

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美濃側の畑のやや北の奥まったところに、芭蕉の句碑があった。

江戸にあった芭蕉が、伊賀における母の死を知り、旅だつ。同行者は江戸浅草に住んでいた苗村千里で、篤実に芭蕉の身のまわりの世話をした。

芭蕉自身、この旅を、野にすてられた髑髏のざらしになる気分でおもいたち、そのことばを入れた句も紀行文の冒頭に入れたことから、

『野ざらし紀行』とよばれている。

この旅の途次、近江に入り、東へゆき、この美濃境いの寝物語の里を経、不破の関跡をこえた。

私は、どうせ『芭蕉文集』や『芭蕉句集』に出ているだろうと思いつつ、句碑に刻まれた「・・・・・美濃と近江」という文字に目をとめたまま、

メモをとらなかった。帰宅して『野ざらし紀行』をひらいてみたところ、句碑の俳句は出ておらす『芭蕉句集』にも見あたらなかった。

句碑の句は、おぼろげの記憶では「正月も美濃と近江や閏年」だったようにおもうが、

『野ざらし』の旅での大きな収穫であった「道のべの木槿は馬にくはれけり」や「露とくとくこころみに浮世すすがばや」などからくらべると、

いい句ではなかったような気がする。

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司馬遼太郎が記すように、この句碑は「美濃側」に立つ。岐阜県不破郡関ヶ原町今須である。

この地は「寝物語の里」として有名で、芭蕉句碑の西10mほどのところに、

「寝物語の里」碑が立つ。ここは滋賀県米原市長久寺である。

そして! 芭蕉句碑と寝物語の里碑の間には、

幅50cmほどの溝が流れていて、

この小さな溝が近江国と美濃国の国境、今も、滋賀県と岐阜県の県境なのである。

この溝からたった数mのところにあるこの句碑、これは「近江の芭蕉句碑」としては番外なのである。

でも、せっかく来たのだから、ここに載せることにした。

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近江の芭蕉 句碑を訪ねる 米原 長久寺 寝物語の里

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万葉集を携えて

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