渡岸寺・十一面観音
滋賀県高月町渡岸寺

今年の梅雨明けは遅く、ようやくに青空を迎えた。そして、やっとこの十一面観音を訪ねることが出来た。

十一面観音像は全国に数多くあるらしいが、国宝あるいは重要文化財に指定されている像は、この滋賀県が一番多いという。41体。国宝に指定されている像は6体で、聖林寺、法華寺、室生寺、観音寺、道明寺、渡岸寺である。

渡岸寺の十一面観音については、多くの方がその美しさを書いているが、無勉強の私にはその評とて出来ないので、今回は井上靖の文を引用させてもらう。

「渡岸寺の十一面観音を見に行ったのは四月の桜の時季であった。観音堂は信長に亡ぼされた浅井氏の居城小谷城のあった丘陵がすぐそこに見える湖畔の小平原の一画にあった。写真ではお目にかかったことのある十一面観音像の前に立つ。像高一九四センチ、堂々たる一木造りの観音さまである。どうしてこのような場所にこのような立派な観音像があるかと、初めてこの像の前に立った者は誰も同じ感慨を持つことであろうと思う。胸から腰へかけて豊な肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感も見事である。顔容もまたいい。体躯からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変わって森厳な美しさで静まり返っている。頭上の仏面はどれも思いきって大ぶりで堆く植え付けられてあり、総体の印象は密教的というか、大陸風というか、頗る異色ある十一面観音像である。正統的という言い方をすれば、女人、偉丈夫の違いはあれ、一脈、聖林寺の十一面観音に通じるものがあるように思われる。時代的に見れば法華寺の十一面観音と並ぶ貞観彫刻の傑作ということになる。この観音像戦国の兵火にかかり、それまでの古刹渡岸寺は焼けたが、土地の人の手で救い出され、地中に埋められて難を逃れたと伝えられている。」
 

渡岸寺

天平八年(736)、疱瘡が流行、聖武天皇は泰澄に除災祈願を命じた。泰澄は十一面観音を刻み渡岸寺を建立、息災延命万民豊楽を祈請した。延暦九年(790)最澄が再興、七堂伽藍を建立し、多くの仏像を安置した。天正元年(1573)織田信長の小谷城攻略のとき兵火にかかり焼失。しかし、十一面観音像は村人の手により土中に埋蔵されて難を免れた。
 
 
白洲正子の文章も借りる。

「私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとうに仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、流れるような衣文のひだをなびかせつつ、わずかに腰をひねって歩み出そうとするその動きには、何ともいえぬ魅力がある。十一面観音は色っぽい。そんな印象を受けたが、十一面の中でも、「暴悪大笑面」というもっとも悪魔的な顔を、後ろにつけているのは何を意味するのであろうか。」


外は蝉時雨が聞える。静粛とした蔵の中でしばらく像の前に佇んでいた。
白洲正子は、十一面観音は白山の神が化身したもの、とも云っていたが、まさに白山比当スの神々しくも艶かしい女体を想像しながらこの観音像を見つめていた。

千葉から来たという団体さんがぞろぞろとやって来た。潮時と、次の目的地「鶏足寺・十一面観音」に向う。
近江の寺一覧に戻る
 
万葉集を携えて
inserted by FC2 system