滋賀県大津市比叡山 西塔から横川への移動途中、視界が大きくひらける高台がある。 正面、琵琶湖とその向こうに近江富士・三上山。 左の北方に目をやると、遠く比良の山々。 ・・・ 横川中堂 旧の中堂は昭和17年(1942)7月、落雷のため焼失、鉄骨鉄筋コンクリート造で昭和46年(1971)に落慶したのが今の堂だる。 崖を利用して建てられ、一部は懸造である。この部分の屋根は主屋に縋りつくように造られた縋派風になっている。 伝えられる処では、慈覚大師が求法のため入唐の旅に出られたときの唐船に擬して造られたという。 一寸船に似た処があるのでこの俗説が生まれたのであろう。 ・・・・・ 赤山宮 慈覚大師円仁和尚が勅許を得て入唐留学の時、中国の赤山に於いて新羅明神を留学中仏法研究の守護神とし勧請、 自らの呪縛命神として受持し、その功徳により十年間修行が無事終わったので、帰国後この地に祀られた。 以来全国の寺院では、慈覚大師を天台法義伝承の大師と仰ぎ、赤山新羅明神を天台仏法守護神として祀っている。 ・・・・・ 虚子の遺髪塔 清浄な月を見にけり峰の寺 虚子 御僧に別れ惜しやな百千鳥 立子 親子の句碑がならぶ。 ・・・・・ 鐘楼 元三大師堂 良源(慈恵大師・元三大師とも)を祀ることから、元三大師堂と呼ばれる。良源は正月三日が命日だから、元三大師って呼ぶのだそうだ。 また四季講堂とも呼ばれ、春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからその名がある。偉い坊さまで、第18代天台座主、延暦寺中興の祖といわれる。 元三大師と角大師の由来 永観二年全国に疫病が流行して、ちまたでは疫病の神が徘徊し、多くの人々が次々と全身を冒されていった。 お大師さまは、この人々の難儀を救おうと、大きな鏡の前に自分のお姿を映されて、静かに目を閉じ禅定(座禅)に入られると、 お大師さまの姿はだんだんと変り、骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になられた。 見ていた弟子たちの中でただ一人明普阿闍梨だけがこのお姿を見事に写しとられた。 お大師さまは写しとった絵を見て、版木でおふだに刷るよう命じられ、自らもおふだを開眼された。 出来上がったおふだを一時も早く人々に配布して、各家の戸口に貼り付けるように命じられ、病魔退散の実を見事にしめされたのであった。 やがてこのおふだ(角大師の影像)のあるところ、病魔は怖れて寄り付かず、一切の厄難から逃れることが出来た。 以来千余年、このふだを角大師と称し、元三大師の護符としてあらゆる病気の平癒と厄難の消除に霊験を顕し、崇められている。 ・・・・・ 『徒然草』第238段に、兼好が「自讃の事七つ」と自慢していることがある。そのひとつに、 ・・・ 人あまた友なひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂のうち、龍華院と書ける、古き額あり。 「佐理・行成のあひだ疑ひありて、いまだ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、 「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」といひたりしに、 裏は塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを、よくはきのごひて、おのおの見侍りしに、 行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。 ・・・ その昔、兼好が、比叡山延暦寺の東塔・西塔・横川の諸堂を巡回して礼拝したときの話だ。 兼好は勘違いをしているのだろうか、常行堂は横川ではなく西塔にあるのだけれど、 龍華院は横川にある「四季講堂」のことをいう。 ・・・ ところで、兼好自慢の古い額の話、 佐理って藤原佐理のこと、行成って藤原行成のこと、 小野道風と三人で「三蹟」と呼ばれた平安中期のすごい書家たちだ。 そんなすごい筆跡による額を、 「塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを」、許るせんなぁ。「なんでも鑑定団」に見てもらったら億だよ、きっと。 現在、「龍華院」という額はなく、扁額は「元三大師」だった。裏書はあるのだろうか。 |