『蜻蛉日記』 石山詣で
 
 
さらば、いと暑きほどなりとも、げにさいひてのみやはと思ひ立ちて、石山に十日ばかりと思ひ立つ。
忍びてと思へば、はらからといふばかりの人にも知らせず、心ひとつに思ひ立ちて、明けぬらんと思ふほどに出で走りて、賀茂川のほどばかりなどにて、いかで聞きあへつらん、追ひてものしたる人もあり。有明の月はいと明かけれど、会ふ人もなし。河原には死人も臥せりと見聞けど、恐ろしくもあらず。粟田山といふほどにゆきさりて、いと苦しきを、うち休めば、ともかくも思ひわかれず、ただ涙ぞこぼるる。人や見ると、涙はつれなしづくりて、ただ走りて、ゆきもてゆく。
山科にて明けはなるるにぞ、いと顕証なるここちすれば、あれか人かにおぼゆる。人はみな、おくらかし先立てなどして、かすかにて歩みゆけば、会ふ者見る人あやしげに思ひて、ささめき騒ぐぞ、いとわびしき。
からうじていき過ぎて、走り井にて、破子などものすとて、幕引きまはして、とかくするほどに、いみじくののしる者来。いかにせむ、たれならむ、供なる人、見知るべき者にもこそあれ、あないみじ、と思ふほどに、馬に乗りたる者あまた、車二つ三つ引きつづけて、ののしりて来。「若狭守の車なりけり」といふ。立ちも止まらでゆき過ぐれば、ここちのどめて思ふ。あはれ、程にしたがひては、思ふことなげにても行くかな、さるは、明け暮れひざまづきありく者の、ののしりてゆくにこそはあめれと思ふにも、胸さくるここちす。下衆ども車の口につけるも、さあらぬも、この幕近く立ち寄りつつ、水浴み騒ぐ。振舞のなめうおぼゆること、ものに似ず。わが供の人、わづかに、「あふ、立ちのきて」などいふめれば、「例もゆききの人、寄るところとは知りたまはぬか。咎めたまふは」などいふを見るここちは、いかがはある。
やり過ごして、いまは立ちてゆけば、関うち越えて、打出の浜に、死にかへりていたりたれば、先立ちたりし人、舟に菰屋形引きてまうけたり。ものもおぼえずはひ乗りたれば、はるばるとさし出だしてゆく。いとここち、いとわびしくも苦しうも、いみじうもの悲しう思ふこと、類なし。
申の終りばかりに、寺の中につきぬ。斎屋に物など敷きたりければ、行きて臥しぬ。ここちせむかた知らず苦しきままに、臥しまろびてぞ泣かるる。夜になりて、湯などものして、御堂に上る。身のあるやうを仏に申すにも、涙に咽ぶばかりにて、言ひもやられず。夜うち更けて、外のかたを見出だしたれば、堂は高くて、下は谷と見えたり。片崖に木ども生ひこりて、いと木暗がりたる。二十日月、夜更けていとあかけれど、木蔭にもりて、ところどころに、来しかたぞ見えわたりたる。見おろしたれば、麓にある泉は、鏡のごと見えたり。高欄におしかかりて、とばかりまもりゐたれば、片崖に、草の中に、そよそよ、しらみたるもの、あやしき声するを、「こはなにぞ」と問ひたれば、「鹿のいふなり」といふ。などか例の声には鳴かざらむと思ふほどに、さし離れたる谷のかたより、いとうら若き声に、はるかにながめ鳴きたなり。聞くここち、そらなりといへばおろかなり。思ひ入りて行なふここち、ものおぼえでなほあれば、見やりなる山のあなたばかりに、田守のもの追ひたる声、いふかひなく情なげにうち呼ばひたり。かうしもとり集めて、肝を砕くこと多からむと思ふに、はてはあきれてぞゐたる。さて、後夜行なひつれば下りぬ。身よわければ、斎屋にあり。
夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいとのどかにて、霧たちわたり、川のあなたは絵にかきたるやうにみえたり。川づらに放ち馬どものあさりありくも、遙かに見えたり。いとあはれなり。二なく思ふ人をも、人目によりて、とどめおきてしかば、出で離れたるついでに、死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、まづこのほだしおぼえて、恋しう悲し。涙のかぎりをぞ尽くし果つる。をのこどもの中には、「これよりいと近かなり。いざ、佐久奈谷見には出でむ」、「口引きすごすと聞くぞ、からかなるや」などいふを聞くに、さて心にもあらず引かれいなばやと思ふ。
かくのみ心尽くせば、ものなども食はれず。「しりへのかたなる池に蕺といふもの生ひたる」といへば、「取りて持て来」といへば、持て来たり。笥にあへしらひて、柚おし切りて、うちかざしたるぞ、いとをかしうおぼえたる。
さては夜になりぬ。御堂にてよろず申し、泣き明かして、あかつきがたにまどろみたるに、見ゆるやう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかくと見る。ふとおどろかされて、仏の見せたまふにこそはあらめと思ふに、ましてものぞあはれに悲しくおぼゆる。
明けぬといふなれば、やがて御堂より下りぬ。まだいと暗けれど、湖の上、白く見えわたりて、さいふいふ、人二十人ばかりあるを、乗らんとする舟の、差掛のかたへばかりに見くだされたるぞ、いとあはれにあやしき。御燈明たてまつらせし僧の、見送るとて岸に立てるに、たださし出でにさし出でつれば、いと心細げにて立てるを見やれば、かれは目なれにたらむところに、悲しくやとまりて思ふらむとぞ見る。をのこども、「いま、来年の七月まゐらむよ」と呼ぶばひたれば、「さなり」と答へて、遠くなるままに、影のごと見えたるもいと悲し。
空を見れば、月はいと細くて、影は湖の面にうつりてあり。風うち吹きて湖の面いと騒がしう、さらさらと騒ぎたり。若きをのこども、「声細やかにて、面痩せにたる」といふ歌をうたひ出でたるを聞くにも、つぶつぶと涙ぞ落つる。いかが崎、山吹の崎などいふところどころ見やりて、葦の中より漕ぎゆく。まだものたしかにも見えぬほどに、遙かなる楫の音として、心細くうたひ来る舟あり。ゆきちがふほどに、「いづくのぞや」と問ひたれば、「石山へ、人の御迎へに」とぞ答ふなる。この声もいとあはれに聞こゆは、言ひおきしを、おそく出でくれば、かしこなりつるして出でぬれば、たがひていくなめり。とどめて、をのこどもかたへは乗り移りて、心のほしきにうたひゆく。瀬田の橋のもとゆきかかるほどにぞ、ほのぼのと明けゆく。千鳥うち翔りつつ飛びちがふ。もののあはれに悲しきこと、さらに数なし。さてありし浜べにいたりたれば、迎への車ゐて来たり。京に巳の時ばかりいきつきぬ。
これかれ集まりて、「世界までなど、言ひ騒ぎけること」などいへば、「さもあらばれ、いまはなほ然るべき身かは」などぞ答ふる。
 

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