石山寺
大津市石山寺 瀬田川の右岸、伽藍山を背に石山寺はある。
多宝塔 本堂背後にあるこの多宝塔、国宝である。現存最古のものという。私の世代はこの多宝塔が4円の通常切手だったことを覚えている。 夜のライトアップされた多宝塔も美しい。 正月初詣で賑わう石山寺、本堂の如意輪観音さままでが遠い。正月餅飾りは独特の飾り付け、干菓子もきれい。 巻四に、
「紫式部は、右少弁藤原為時朝臣が女、上東門院の女房にて侍りけるに、一条院の御叔母、選子内親王より珍しからん物語や侍ると、女院へ申されたりけるを、式部に仰せられて、作らせられければ、この事を祈り申さむとて、当寺に七か日籠り侍りけるに、水海の方、遙々と見渡されて、心澄みて様々の風情、眼に遮り、心に浮かみけるを、とりあへぬ程にて、料紙などの用意も無かりければ、大般若の料紙の内陣にありけるを、心の中に本尊を申し受けて、思ひあへぬ風情を書き続ける。彼の罪障懺悔の為に、大般若経を一部書きて、奉納しける。今に当寺にありとぞ。此の物語書きけるところをば源氏の間と名付けて、其の所変はらずぞ有るなる。彼の式部をば日本紀の局とて、観音の化身とも申し伝へ侍り。」
紫式部は物語を作るため、この石山寺の七日間籠ったという。寛弘元年(1004)のことである。参籠から幾日か経って、八月十五日の満月の夜、月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮んだという。内陣にあった大般若経の料紙に、「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋ひしく・・・」と、書き始めた。
『源氏物語』は桐壺の巻から起筆されたのではなく、この十五夜の月を眺めて都を恋しく思う光源氏の場面から始まった。これが須磨の巻となってまとめられていく。
という、起筆伝説が中世以降語り継がれてきたが、源氏物語成立論などを研究する学者にはまったく無視をされる伝説ではある。
縁起絵巻にいう「源氏の間」はいまも本堂の一部屋に在るが、その窓には金網が張ってあり、いかにも無粋。蚊とか蛾が入ってきて式部の執筆のじゃまをしないようにとの配慮だろうが。
境内には筆をもつ式部の像もある。
この起筆伝説により、後世紫式部の昔を偲ぶ十五夜の月見の歌会が幾度となく催されたという。月見亭である。
『万葉集』を学ぶ私は、源順の「左右」が印象的だ。同じく、『石山寺縁起絵巻』巻2に、
康保の比、廣幡の御息所の申させ給けるによりて、源順勅をうけたまはりて、万葉集をやハらげて點し侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、當寺にいのり申さむとてまいりにけり。左右といふもじのよみをさとらずして、下向の道すがら、あむじもてゆく程に、大津の浦にて物おほせたる馬に行きあひたりけるが、口付のおきな、左右の手にておほせたる物をゝしなをすとて、をのががどちまでより、といふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍けるとぞ。
『万葉集』が編集されて200年経った平安中期、漢字ばかりで書かれた『万葉集』を読める人はほとんどいなくなっていた。天暦五年(951)村上天皇の勅命で、「梨壺の五人」といわれる人たちに訓読するようにといわれた。そのひとり源順は、歌中の「左右」という文字がどうしても読めなかった。その苦境も仏が頼り、石山寺に参詣したという。たちどころに観音さまが教えてくれたわけではない。帰り道、大津の浜辺で、荷車の馬主が荷物が落ちそうになっているのにのんびり片手で荷を押える馬方に向かって、「何してんのや!真手(左右の手・両手)でやらんか!」、どなった。「そうか!そうだ!」。左右を「まで」と読めた。
源順、馬上で飛び上がって喜んだ。その弾みで馬から落ちて、地面に「まで」をついた。・・・そんなことは書いていない。
『万葉集』の例をあげると、
國遠 直不相 夢谷 吾尓所見社 相日左右二
国遠み 直には逢はず 夢にだに 我れに見えこそ 逢はむ日までに 『更級日記』の作者菅原孝標の女も二度石山寺を訪ねている。『石山寺縁起絵巻』巻3には、
『更級日記』の石山寺の件りは、 今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知り果て、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出でらるれば、今はひとへに、ゆたかなる勢ひになりて、双葉の人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月の二十余日、石山に参る。 二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら雨ぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしき物と聞きて、蔀を押し上て見れば、有明の月の谷の底さへくもりなく澄みわたり、雨と聞えつるは、木の根より水の流るる音なり。
谷川の流れは雨と聞こゆれど ほかより異なる有明の月 『蜻蛉日記』の作者右大将藤原道綱の母も石山寺に参詣している。『石山寺縁起絵巻』巻2には、 『蜻蛉日記』の石山詣での件りはちょっと長いので、別頁で紹介。クリック 和泉式部も、敦道親王との関係がうまくいかず、むなしい気持を慰めるために石山寺に籠った。『石山寺縁起絵巻』に和泉式部は載らない。『更級日記』や『蜻蛉日記』は、家族の安寧を願い、これからの人生をまじめにお願いする参詣なのに、色恋沙汰の多い和泉式部の参詣は、呆れられていたのかもしれない。石山寺に籠っていても、メールの交換ばかり。 『和泉式部日記』の石山詣でも別頁で紹介。クリック 『枕草子』には(204段)、 寺は、壺坂。笠置。法輪。霊山は、釋迦佛の御住みかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀。 『梁塵秘抄』には、 観音験を見する寺 清水 石山 長谷の御山 粉河 近江なる彦根山 間近く見ゆるは六角堂 験仏の尊きは 東の立山 美濃なる谷汲の 彦根寺 志賀 長谷 石山 清水 都に間近き六角堂 『今昔物語集』 「石山観音、為利人付和歌末語」 |