桑実寺
滋賀県蒲生郡安土町桑実寺
  

桜の開花宣言が発表され、いよいよ春本番を迎える。安土町は何度も訪れているし、2月には近くの石馬寺と観音正寺を訪ねていた。今日は彦根の実家に入学のお祝いを届けることになり、この桑実寺に寄っていくことにした。

桑実寺は、繖山(433b)の西麓に位置する。繖山は、観音寺山とも云い、佐々木六角氏の居城があったことでも有名である。また、北に位置する能登川町伊庭のお祭り「伊庭の坂下し祭」でも有名である。繖山の山頂にある繖峰三神社から神輿3基を引きずり下ろす激しい神事である。

桑実寺には車では行けず、麓の公民館に駐車させてもらい、中腹にある本堂に向かった。参道入口では、紅白の梅と薮つばきが迎えてくれている。山門をくぐると、「ピンポン」と来訪を告げるインターホーンのような音がする。おしゃれというのか、無粋なのか、入山料300円のカウントのような感じだ。

参道は500段余りの石段が続く。脇には小川が流れ、つばきの花が咲く。登り詰めたところには、シキミの大きな木があり、薄い黄花を咲かせていた。

右写真が重文の本堂である。なるほど優美な建物である。室町時代前期の建築様式という。
桑実寺は、西国薬師霊場第46番札所だ。繖山の古代巨岩信仰と薬師如来の信仰とが結びついて、衆生の病苦を治す霊場と考えられていた。

縁起によれば、天智天皇の代に、第四皇女阿閉皇女(後の元明天皇)の病気平癒を祈願して、定恵和尚(藤原鎌足の長男)に法会を営ませたところ、琵琶湖から薬師如来が現れ、皇女の病気は治った。桑実寺の始まりと伝える。

また、開山の定恵和尚が中国から桑を持ち帰り、養蚕の技術を広めたことからこの寺名が起こったと伝える。さらに、山号の繖山の「繖」は、蚕が口から糸を吐き散らし、繭をかけることにつながるという。

本尊は、一木造りの薬師如来であるが秘仏のため拝観できない。10年に一度の開帳という。本堂には、金色の薬師如来が座す。現在の住職が自らノミをふるって造られた。金箔も自ら塗ったという。

ところで、開祖の「定恵」についてであるが、藤原鎌足の長男の定恵であれば、白雉4年(653年)に11歳で遣唐使と共に唐の都長安に渡っている。そして、天智4年(665年)9月唐より帰国し、3ヶ月後の12月23歳で亡くなっている。開創の白鳳6年(677年)は、既に定恵の亡くなった後のことであるし、天智朝ではなく、天武朝のこと。さらに、唐から桑を持ち帰ったのが定恵としても、3ヶ月では養蚕を広めることも難しいと思うのだが。

日本書紀や藤原家伝がすべて史実を伝えている訳でもなく、定恵の意志を継いだ偉いお坊さんがおられて定恵の功績として語り継いだのだろうか。こんな堅物論議を出すよりも、縁起に書かれたことを素直に受け止めた方がずっと夢があってよろしい。

重文 桑実寺縁起絵巻
 
十二神将之図(上段)本堂之図(下段)
阿閉皇女・病床之図

この絵巻きは1532年に奉納されたものであるが、現存する本殿が描かれている。右奥にある三重塔は明治13年に取り壊された。

本尊薬師如来坐像大日如来坐像

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