園城寺
大津市園城寺町 園城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられています。その歴史は、天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城」の勅願を賜り、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師は、当寺の厳儀・三部潅頂の法水に用いたことに由来します。(園城寺パンフレットより) 仁王門(写真右) 宝徳四年(1452)の建立。浄域への表門として慶長六年(1601)、徳川家康のより甲賀の常楽寺より移築、寄進された。 金堂 三井の晩鐘 鐘楼は慶長七年(1602)に再建されたもの。梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られ、「日本の音風景百選」にも認定された。高さ208cm、口径124cm、重さ2250kg、除夜の鐘の百八煩悩に因んで、鐘の上部には乳といわれる百八箇の突起がある。名の通り、日の暮れたころ、暮れ六つに鳴らしていた。7回撞く。最後の一回はそっと打つから6回半と勘定するらしい。 龍神伝説 湖畔で若者が蛇を助けた日、夜になって女が宿を借りにやって来た。ふたりは夫婦になり、妻が身ごもった。若者が産屋をのぞくと、大蛇が赤子をとりまいていた。赤子は玉をしゃぶってすくすく育ったが、領主に玉を取り上げられた。すると湖畔から龍が現れ、「玉は子が無事に育つように与えた私の目玉。もう片方の目を差し上げます。子を見ることができなくなるので、三井寺の鐘を毎日撞いて無事を知らせてほしい」と懇願した。 一撞き300円也、この日もたくさんの人が順を待っていた。 芭蕉句碑 金堂近くに句碑がある。揮毫は榊莫山。 三井寺の 門たたかばや けふの月 閼伽井屋 三井の霊泉、覆屋があり中は暗くてよく見えない。覆屋の正面上部には左甚五郎作の龍の彫刻がある。これも暗くてよく分らない。むかしこの龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたため、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込み静めたと伝えられている。「天智・天武・持統の三帝、御降誕の時、この井水を産湯として玉体を祝浴された。よって御井と云う。茲に園城寺が建てられ俗に三井寺と云われた。」とある。眉唾ものだけど、三井寺の「三」は三人の天皇を示すことを知った。
弁慶の引き摺り鐘 仏教のことは全くの無知でよく分らないが、偉いお坊さんの円珍と円仁の派閥があり、円珍派が園城寺・円仁派が延暦寺と、両派の長い間の抗争があった。(平安時代から信長の延暦寺焼討ちのころまで続く)。延暦寺を山門と呼び、園城寺を寺門と呼んで、天台座主の任命でいずれから座主を出すかでずっともめていたらしい。平安時代の中期・後期にかけて僧兵とよぶ武力集団が活躍する。奈良興福寺の奈良法師、延暦寺の山法師と並び、園城寺のそれは寺法師と称されて大勢力となり、抗争の武力の中心となった。この争いで弁慶が園城寺の釣鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げた。そしてこれを撞いてみると、「イノー・イノー」(関西弁で帰ろうの意)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまった。そのときの鐘という。傷痕や破目が残る。 仏説 孔雀由来 境内に孔雀がいる。その由来は、 修験者の祖、役の行者は藤の皮の衣を着て、松葉を食べ、花の蜜を吸って修行されること、三十有余年、その間孔雀明王の咒文を唱えて、苦修練行され、遂に五色の雲を呼び、孔雀に乗って霊山に飛び去られた。因みに、孔雀明王は世の中の身心にわたる諸毒、心に巣くう三毒、則ち「貪(むさぼる)・瞋(いかる)・癡(ぐちる)」を除くことを本願とする。 唐院四脚門 唐院は円珍が入唐して天安二年(858)に請来した経巻・法具類を貞観十年(868)に納め、伝法道場としたことに始まる。四脚門は唐院の表門。 塔婆(三重塔) もと大和国の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長六年(1601)に移したもので、大和地方における中世の塔の風格をもっており、鎌倉時代和様の様式を伝える南北朝時代頃の建築とされる。 毘沙門堂 西国四十四番札所・観音堂の桜 今年の桜は遅い。ようやく三分咲きだろうか。
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