崇福寺跡
滋賀県大津市滋賀里
 
 
志賀坂越え(山中越え)近江の滋賀里から京の白川に越える峠道。途中、「百穴古墳群」があり、さらに登ると、

志賀の大仏

峠の入口にあたるところに、石仏が御座す。阿弥陀如来坐像で、高さ3.5b、巾2.7bの花崗岩に高さ3.1の像が彫られている。とても柔和な顔をしたやさしい仏様だ。13世紀頃の作といわれている。
崇福寺の所在地については、『日本後紀』に嵯峨天皇が、平安京から山中越えをして崇福寺に立寄り、近くの梵釈寺に寄って湖上唐崎あたりを遊覧したとあり、このあたりと確認された。

崇福寺
天智天皇の勅願により、天智7年(668)に建立された。発掘調査で、寺跡とされる地から舎利容器・銅鏡・和同開珎などが出土している。

寺跡では3つの尾根から金堂・小金堂・講堂・三重塔などの壮大な伽藍配置が確認されている。

ただし、桓武天皇建立の梵釈寺との複合遺跡のため区分は難しい。
舎利容器銅製の外函、銀製の中函、金製の内函の入れ子と
瑠璃壷が塔心礎から発掘された。


「崇福寺塔心礎納置品」として国宝である。
 
 
万葉集(巻2−115)にも、この崇福寺に関連する歌が読まれている。
   穂積皇子(ほづみのみこ)(みことのり)して、近江(あふみ)の志賀の山寺に(つか)はす時に、但馬皇女(たぢまのひめみこ)の作らす歌一首
  (おく)()て 恋ひつつあらずは 追ひ()かむ 道の(くま)みに (しめ)()へ我が()
 
この歌に続いて、巻2−116には「但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、竊かに穂積皇子に接ひ、事すでに形はれて……」とあり、不倫というのか三角関係というのか大胆な恋の歌である。穂積皇子は持統天皇の信頼厚く、この噂を耳にした天皇は勅使に事寄せて、穂積皇子を一時崇福寺に幽閉させ、太政大臣高市皇子との立場を繕ったといわれている。
『今昔物語集』 「天智天皇、建志賀寺語」

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万葉集を携えて

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