厄除 立木観世音

大津市南郷

私たち地元のものは、厄除けの立木さんと呼んでいる。
瀬田川沿いに参道口があり、駐車場はいつも車でいっぱい、京都・滋賀からの多くの参詣者で賑わう。

厄除けのご利益をいただくためではあるが、この700余段という石段は相当きつい。
四国霊場の金毘羅さんは1368段、山形の羽黒山神社は2446段という。それに比べると700段は、なあんやと云われそうであるが。
この日も汗だくになって石段をひとつ、ふたつ、と数えながら上った。しんどくて途中で汗を拭いたりしていると数を忘れてしまう。またひとつ、ふたつ、と始める。

700余段を上り終えると、そこが霊場である。

弘法大師が鹿に乗る像がある。その由は

「立木観世音御縁起」に、

茲に、近江国厄除立木観世音は弘法大師の御自作也。
その來歴をたずねるに、人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁六年、大師四十二歳の御時、諸国行脚し給ふ折柄、此山に光を放つ霊木あり。奇異の思ひをなして近寄らんとし給ふに、前に一帶の大河あり。暫く川の邊りに佇み玉ふに、不思議なる哉、白き雄鹿忽然と出現し、即ち大師を背に乘せ大河を跳び渡り、霊木の前に導き、白鹿忽ち観世音と化現し、光明を放ちて虚空に消散し玉ふ。
大師歓喜に堪へず、是れ即ち我が有縁の霊地ならんと其霊木に向ひ玉ひ、誓願を起こし、夫れ人の危難あるは殊に四十二歳の厄年なり。我れ既に厄年なれば除厄の爲め且は来世の衆生の諸々の厄難厄病を除き給はん事を祈念し、即ち立木のまま御身の丈に合して五尺三寸の聖観世音の尊像を彫刻し玉ひ、其の餘木を以て御脇立毘沙門天、廣目天、又は大師の眞影に至るまで彫刻し堂宇を結び安置せしめ玉ふなり。斯かる不思議の霊像なれば、参詣の人々諸々の厄難厄病を遁れ、諸願成就せずといふ事なし。
其後、紀州高野山を開基し玉ふ、故に當山を元高野山と云ふ。
誠に千有餘年の霊地なれば、信心の輩には感應まします事疑ひなし、依て世人に知らしむるものなり。

立木観世音の「立木」という名の由来が分った。瀬田川に架かる橋を「鹿跳び橋」というのも分った。
でも、この縁起にひとつだけうそがあると思う。いくら偉い弘法大師さまでも、霊木の余材で自分の「御真影」までは彫らんやろ。この私の真影を拝みなさいとは云わんと思うなあ。

本堂で手を合わせ、奥院で手を合わせ、厄除けのお願いをする。鐘楼には「厄除の釣鐘なれば観音を念じ一人一つの事」とある。
私は数えで62歳、厄年なのだろうか。
本堂に戻り、「人生一代の厄歳(数え年)」という一覧表で確認すると、

  大厄 男 25 41 42 43 61
      女 19 32 33 34 37

  中厄 男女 3 12 21 30 39 48 57

  小厄 男女 8 17 26 35 44 53 62

とある。
この表で厄歳の数を数えると、男女とも62歳の人生で19回である。19回、この立木さんにお願いをするのが一番よいということだろう。
ということは、700×19=10300 段の石段を上ることになる。
それと、私は62の小厄にあたる。今日来てよかった、もう一度観世音菩薩さまに手を合わせた。
ところで菩薩さま、63歳以降は何も書いておりませんが、これからはもう厄歳はないということでございましょうか。それとも、63歳にもなったら仏さまに頼らず、自分で生きていけとおっしゃるのでございましょうか。まさか、そんな年寄は知らんでとおっしゃるまい・・・。

境内には、子ども用の太鼓が置かれていて、この子もこれを敲くのが楽しみで上ってきたと、楽しそうにバチを振っていた。また、休憩所には奉納された番傘、粋な奉納物である。
・・・
帰りは石段を避け、別の道を選んだ。南郷へ直接出る道で、木漏れ日の苔生す小道、こちらの方がゆるやかな坂道で、ずっと素敵な参道である。木々の合間から大河・瀬田川も望める。
その分距離はちょっと長いけど。

 

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