大津市堅田1丁目 浮御堂は正式の名を海門山満月寺といい、京都大徳寺末寺の禅寺である。
高浜虚子と阿波野青畝の句碑もあって 湖もこの辺にして鳥渡る 虚子 五月雨の雨垂ばかり浮御堂 青畝
中井余花朗の句碑 春風や人陸にあり舟にあり 中井余花朗は、本名幹太郎、明治39年本堅田の酒造家に生まれた。高浜虚子の俳句雑誌「ホトトギス」に投句、後に虚子に師事した。 昭和22年秋、虚子は中井邸に一泊、この時虚子の詠んだ句が上記の「湖もこの・・・」である。 芭蕉 浮御堂の山門をいったん出て、北側の湖岸を歩いてみると、芭蕉の俳文「堅田十六夜之弁」を刻した碑がある。 元禄四年八月十六日、落柿舎を出て湖南の地に戻っていた芭蕉は、義仲寺の無名庵で仲秋の名月を賞し、翌十六夜には湖上を舟で堅田に至り、同地の門人竹内茂兵衛成秀の家に遊んだ。この碑が立つ辺りのことである。 芭蕉はその時のことを「堅田十六夜之弁」と記して成秀に与えた。 「堅田十六夜之辨」 望月の残興なほやまず、二三子いさめて、舟を堅田の浦に馳す。その日、申の時ばかりに、何某茂兵衛成秀といふ人の家のうしろに至る。「酔翁・狂客、月に浮かれて来れり」と、舟中より声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、簾をまき塵をはらふ。「園中に芋あり、大角豆あり。鯉・鮒の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に櫂をならべ莚をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、仲秋の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しもなほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干によつて、三上・水茎の岡、南北に別れ、その間にして峰ひきはへ、小山いただきを交ゆ。とかく言ふほどに、月三竿にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの曰く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと切なり。やがて月雲外に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極黄門の歎息のことばをとり、十六夜の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、「この堂に遊びてこそ。ふたたび惠心の僧都の衣をうるほすなれ」とい言へば、あるじまた言ふ、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に盃をあげて、月は横川に至らんとす。 鎖明けて月さし入れよ浮御堂 ばせを やすやすと出でていさよふ月の雲 同 |