浮御堂 海門山満月寺
大津市堅田1丁目
 
 

浮御堂は正式の名を海門山満月寺といい、京都大徳寺末寺の禅寺である。
平安中期、長徳年間(995〜999)比叡山横川恵心院の僧源信が、湖上の安全を祈願して、自ら千体の阿弥陀仏を刻んで開山した。

源信は、往生極楽の教行こそ「末代の目足」であって、「頑魯の者」のための道であると断じて『往生要集』3巻を著した僧である。(仏教辞典そのまま写した。なんのことかは分らない。)
また、源信はその住した恵心院によって世に「恵心僧都」と敬称される。

芭蕉

境内には芭蕉の句碑が2基ある。

  比良(ひら)三上(みかみ)雪さしわたせ(さぎ)の橋

元禄三年、大津で詠まれた句である。
大津の浜に立つと、西に比良の山々、東に三上山、真ん中に琵琶湖がよこたわる。現在ここに琵琶湖大橋が架かる。芭蕉の句が現実となった。

  (じやう)明けて月さし入れよ(うき)()(だう)

元禄四年八月十六日、堅田・浮御堂近くで十六夜の月を眺めながら詠まれた句である。詳しくは下記の「堅田十六夜之弁」で。

比良三上・・・

鎖明けて・・・

 
高浜虚子と阿波野青畝の句碑もあって

  湖もこの辺にして鳥( )る  虚子

  五月雨(さみだれ)雨垂(あまだれ)ばかり浮御堂  
青畝
 

湖も・・・

五月雨・・・

 
虚子の句碑はなぜか湖の中にあって、双眼鏡でも持ってこんと読めん。
 
中井余花朗の句碑
 
  春風や人陸にあり舟にあり
 
 
  中井余花朗は、本名幹太郎、明治39年本堅田の酒造家に生まれた。高浜虚子の俳句雑誌「ホトトギス」に投句、後に虚子に師事した。
  昭和22年秋、虚子は中井邸に一泊、この時虚子の詠んだ句が上記の「湖もこの・・・」である。

芭蕉
  
浮御堂の山門をいったん出て、北側の湖岸を歩いてみると、芭蕉の俳文「堅田十六夜之弁」を刻した碑がある。

元禄四年八月十六日、落柿舎を出て湖南の地に戻っていた芭蕉は、義仲寺の無名庵で仲秋の名月を賞し、翌十六夜には湖上を舟で堅田に至り、同地の門人竹内茂兵衛成秀の家に遊んだ。この碑が立つ辺りのことである。
芭蕉はその時のことを「堅田十六夜之弁」と記して成秀に与えた。
 
 
堅田(かただ)十六夜(いざよひ)(べん)
望月(もちづき)残興(ざんきよう)なほやまず、二三()いさめて、舟を堅田の浦に()す。その日、(さる)の時ばかりに、何某(なにがし)茂兵衛(もへゑ)成秀(なりひで)といふ人の家のうしろに至る。「(すい)(をう)狂客(きやうかく)、月に浮かれて来れり」と、舟中より声々に呼ばふ。あるじ思ひかけず、驚き喜びて、(すだれ)をまき(ちり)をはらふ。「園中に芋あり、大角豆(ささげ)あり。(こひ)(ふな)の切り目たださぬこそいと興なけれ」と、岸上に(かい)をならべ(むしろ)をのべて宴を催す。月は待つほどもなくさし出で、湖上はなやかに照らす。かねて聞く、仲秋の望の日、月浮御堂(うきみだう)にさし向ふを鏡山(かがみやま)といふとかや。今宵(こよひ)しもなほそのあたり遠からじと、かの堂上の欄干(らんかん)によつて、三上(みかみ)水茎(みづくき)の岡、南北に別れ、その間にして峰ひきはへ、小山いただきを(まじ)ゆ。とかく言ふほどに、月三竿(さんかん)にして黒雲のうちに隠る。いづれか鏡山といふことをわかず。あるじの(いは)く、「をりをり雲のかかるこそ」と、客をもてなす心いと(せち)なり。やがて月雲外(うんぐわい)に離れ出でて、金風・銀波、千体仏の光に映ず。かの「かたぶく月の惜しきのみかは」と、京極(きやうごく)黄門(くわうもん)の歎息のことばをとり、十六夜(いざよひ)の空を世の中にかけて、無常の観のたよりとなすも、「この堂に遊びてこそ。ふたたび惠心(ゑしん)僧都(そうづ)(ころも)をうるほすなれ」とい言へば、あるじまた言( )、「興に乗じて来たれる客を、など興さめて帰さむや」と、もとの岸上に盃をあげて、月は横川(よかは)に至らんと( )
 (じやう)明けて月さし入れよ(うき)()(だう)  ばせを
 やすやすと出でていさよふ月の雲  ( 
)

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