(車道)

高野館遺跡

東近江市永源寺高野町

現地の説明に、

この城館は、石垣(幅5.5m、高さ下段3m上段1.5m)に囲まれた上下2段の平坦地で、

上段石垣の中央部分には幅6mのスロープが取り付けられていた。

さらに、下段石垣に南端張り出し部分には、枡形状虎口がみつかっている。

文献資料によると、この地は戦国時代には小倉右京亮の所領で、その妻お鍋は夫の亡き後、

織田信長の側室に迎えられ、

信長亡き後は、豊臣秀吉から当地高野に領地を賜ったとある。

高野遺跡は中世の城館で、石垣を用い規模の大きなスロープや枡形状虎口を備えている点などから、

お鍋が当地に賜った館の可能性がある。

平坦地は後世の耕作のため、建物遺跡は残っていないが、石組井戸1基の他近世の井戸2基なども見つかっている。

遺物は、16世紀から近世までのものであるが、

中には、織部向付や染付碗、白磁碗などの高級陶磁器も含まれており、裕福な人物が居住していたことがうかがえる。

お鍋のこと

文献に、小倉右京亮の妻とも小倉実澄の妻ともあり、諸説あってどなたの奥様だったかよくわからないが、

夫小倉某との間に二人の子があったことは事実らしい。

その夫が戦死した後、お鍋は二子を連れて信長の側室になった。

未亡人の子持ち女性に手を出す信長もすごいが、天下一の信長の側室になるお鍋もすごい。

そして、信長との間に、二男(信高・信吉)一女を生んだお鍋さん!すごい!

信長亡き後、お鍋は秀吉より化粧料182石を与えられ、さらに翌年には400石を追加された。

また、信高は、近江国愛知郡菩提寺村、神崎郡山上村などに計2000余石、

信吉は、近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに計2000余石を与えられ、

お鍋は信吉とともに神崎郡の高野館に住んだとされる。

関ヶ原の戦いで、信高、信吉は西軍に加わったため改易、

お鍋は、姪っ子の淀君より50石の知行を与えられ、京に閑居したといわれている。

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参考資料

愛知川をはさんで、向こう側に縄文時代の集落遺跡「相谷熊原遺跡」がある。

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