草津宿

草津市草津

東海道を矢倉から草津町に入る。草津宿だ。

東海道と中山道が交わる宿場町であるため、宿場の入口は東海道江戸方よりの入口と京方よりの入口、そして中山道りの入口、

三つの入口があった。入り口には見付けと呼ばれる施設があって、石垣や土塁が築かれ、さらに柵などを設ける場合もあったようだ。

草津本陣

草津宿には、二軒の本陣、二軒の脇本陣、七十二軒の旅籠などがあったという。

本陣は、大名などの専用宿泊施設で、広大な屋敷地と格式の高い建物からなり、草津宿で最も重要な施設であった。

本陣近くに道標がある。

右 東海道いせみち

左 中仙道美のじ

ここはかつての日本五街道の東海道と中仙道の分岐点である。トンネルができるまではこの上の川を越せば中山道、右へ曲がれば

東海道伊勢路への道であった。

しかも、この地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分といわれ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。

多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸・大坂をはじめ全国の問屋筋の人々の寄進により

建立されたもので、高さは4m余りで、火袋以上は銅製の立派な大灯籠であり、この常夜燈がかつての草津宿の賑わいを伝えている。

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また、近くの立木神社境内には、延宝八年(1680)に、ここ草津追分に立てられた県内最古の道標がある。

みぎハたうかいとういせミち

ひだりは中せんたうをた加みち

 

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追分の地に歌碑があって、

近江路や秋の草つはなのみして花咲くのべぞ何處ともなき  堯孝法師

この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師(1390〜1455)の作といわれている。

室町時代の歌人で、頓阿の曾孫。常光院と号し、応永二十一年(1414)には、二条派の中心歌人であった。

正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来、飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、

永享四年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。

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草津宿の江戸方の入口である草津川の堤上に建つ火袋付石造道標

右 金勝寺志がらき道

左 東海道いせ道

日野の豪商中井氏の寄進によって、文化十三年(1816)三月に建てられた。

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現在、この道標すぐの橋を渡って右に折れると、国道1号線に出られ、そこが今の「うばがもち屋」である。

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