遊女梅川終焉地

草津市矢橋

遊女梅川

自転車で郊外を走ると、車では素通りで気づかなかった思わぬ発見に出会う。こんな近くにとびっくりする。

草津市矢橋、「矢橋の帰帆」といわれ、近江八景のひとつである。

万葉集にも詠われた故地で、

近江のや 矢橋の小竹を 矢はがずて まことありけむや 恋しきものを   巻7−1350

その矢橋の集落に、「十王堂跡(梅川終焉地)」と案内がある。

近松門左衛門の名作『冥途の飛脚』、歌舞伎では「恋飛脚大和往来」で有名な遊女梅川の終焉の地という。

忠兵衛亡き後、ここ矢橋の十王堂で五十余年の懺悔の日々を送ったと伝えられている。

忠兵衛は、大坂の飛脚宿亀屋の跡継ぎ養子、惚れた梅川を身請けするために商いの公金に手をつけた。

ふたりは夫婦になって忠兵衛のふるさと大和国へ逃げたが、ついには忠兵衛御用となった。

その後、梅川はこの近江国矢橋の十王堂で生涯を閉じたという。

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梅川のこと、近松門左衛門の作品も歌舞伎も知らなかったから、ちょっと『冥途の飛脚』読んでみようと思った。

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近松門左衛門 『冥途の飛脚』

・・・・ 「亀屋忠兵衛、槌屋の梅川、たった今捕られた」と北在所に人だかり。程なく取手の役人、夫婦を搦め引来る。

孫右衛門(父親)は気を失ひ息も絶ゆるばかりなる。風情を見れば梅川が、夫もわれも縄目の咎。眼も暗み、泣沈む。

忠兵衛大声あげ、「身に罪あれば覚悟の上、殺さるるは是非もなし。御回向頼み奉る。親の嘆きが目にかかり、

未来の障り是一つ、面を包んでくだされ、お情なり」と泣きければ、腰の手拭ひ引絞り、めんない千鳥、百千鳥。

鳴くは梅川、川千鳥、水の流れと身の行衛、恋に沈みし浮名のみ、難波に残し留りし。

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近松は、大和で捕まった二人までを描いていて、その後は記さない。

忠兵衛は死罪を受けたのだろうか。梅川はどんな罪になったのだろう。

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「十王堂跡(梅川終焉地)」の説明文に、

大正五年七月二日の大阪朝日新聞に「梅川の墓と矢橋」として、梅川の墓を探しあてたとの記事がある。

当時、矢橋では梅川の終焉地を求めて熱心な研究がなされていた。

坪内逍遥など当時一流の人々にも意見を求め、寺の過去帳を調べ、野の墓をさがし、

ついに梅川の墓と見られる旧跡地が十王堂で発見されたと記されている。

梅川がどのようないきさつでこの矢橋に懺悔の地を求めたのであろうか。

旧跡地の名残をとどめる梅の古木と伝梅川の墓が残るのみである。

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その梅川終焉地は、鞭崎八幡宮の鳥居のまん前にある。

 

この八幡さまの鞭崎という名は、

源頼朝が上洛の途、馬上よりムチ(鞭)のサキ(崎)を八幡宮に向けて村人にたずねたので、鞭崎八幡宮と云うようになった、

という。そして表門(写真右)は、

大津の膳所城の南大手門だったという。それも昭和五十二年の屋根葺替工事で明らかになったという。

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私が住んでいるところからこんなに近くの矢橋は、

万葉集に詠われ、鎌倉時代には源頼朝がこの道を通り、江戸時代には遊女梅川がひとりさびしくここで生涯を閉じ、

明治時代になって廃藩置県で膳所城が取り壊されて、その門がこの矢橋に移築された・・・。

そんな歴史の道を、今私は、自転車で走る。

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草津 遊女梅川終焉地

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