(車道)

寝物語

米原市長久寺

近江国と美濃国の国境の道標である。

現在の滋賀県と岐阜県との県境でもある。どこの国境(県境)でも見られる道標なのであるが・・・。

その道標のすぐ近くの滋賀県側に、「寝物語の里」という石碑が立つ。

「寝物語の由来」には、

近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝であった。

この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので、寝物語の名が生まれたと云われている。

また、平治の乱(1159)後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜更けに隣の宿の話し声から、家来の江田行義と気づき、

奇遇を喜んだ」ところとも、「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」ところとも伝えられている。

寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌などにもこの名が出ている。また、広重の浮世絵にもここが描かれている。

ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに  太田道灌

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由緒に語られる通り、今もこの国境(県境)は小さな溝を境とする。

溝をまたいで、左足は美濃、右足は近江に立つことができる。

ほんまやろかと、車を動かし、ナビゲーターの表示をみると、

溝を挟んで、「米原市長久寺」、そして「関ヶ原町大字今須」を示す。すごい。

そして今も、溝を挟んで家が建つ。

 

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司馬遼太郎も、ここ寝物語には興味を持ったようで、その著『街道をゆく』24「近江散策」の中で、

・・・

そこは美濃と国境になっている。山中ながら、溝のような川が、古い中山道を横断していて、美濃からまたげば近江、

近江からまたげば美濃にもどれるという。  ・・・中略・・・

『近江国與地志略』という本が江戸期に出た。與地とは、地図ということばの、明治以前の言い方である。

近江膳所藩が藩として編んだ近江の地誌で、編纂には藩の儒学寒川辰清があたり、1723年(享保八年)から

11年をかけて完成した。そこに寝物語が出ている。

別名を、「長久寺村」といい、『近江国與地志略』のころはすでに長久寺のほうが正称だったらしい。

『志略』によると、長久寺村は柏原の東にあり、かつて長久寺という寺があっためこの村名がおこった、としている。

一方、「長競たけくらべ」ともいい、「寝物語」ともいう、とある。

近江美濃両国の界なり。家数二十五軒、五軒は美濃、二十軒は近江の国地なり。

と、戸数まで書かれている。さらに、この書によると、両国のさかいはわずかに小溝一筋をへだてているだけだ、という。

二十五軒の家が、まさか壁一重を共有する長屋であろうはずもないが、

しかし壁ごしで、美濃の人と近江の人とが寝物語する、というところからその地名ができた。

ひょっとすると、美濃・近江の国境の二軒だけが合壁の長屋で、その二軒長屋の床下を国境の小溝がながれ、両国の人が、

壁ひとつをへだてて仲よく寝物語していた時代があったのかもしれない。

ちょっと話が外れるが、江戸時代の通貨制度では、江戸が「小判何両」というように金本位制で、京・大坂は「銀何匁」というように、

銀本位制であった。この金銀の両立制にあっては、近江は京・大坂圏の銀本位制で、美濃から東は江戸圏で金本位制だった。

『近江国與地志略』のその件によると、

二十五軒のうち近江側の二十軒が銀をつかい、美濃側の五軒が金をつかっていた、というのである。

さらに、二十軒が近江弁で、五軒が美濃弁をつかっていた。

方言と通貨に関するかぎり、

日本国の東西の境界は、寝物語の里の小溝ひとすじであったともいえる。

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米原 長久寺 寝物語

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