木綿園
守山市大門町
守山市の街中を走っていると、大門町の交差点近くで、藤原俊成の歌碑に出会った。
木綿園のひかげの葛かざしもて楽しくもあるか豊の明かりの 藤原俊成
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この俊成の歌、『長秋詠藻』という歌集に載るという。この歌集を初めて知って、勉強せなあかんと、翌日図書館に行った。
図書館というところは、どんな本でも置いてあるんやなあ。感激や。
この歌集は俊成自選の歌集で、あるある、歌碑の歌もちゃんと載っている。
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さらに自転車を走らすと、またまた歌碑に出会った。歌碑は、横江町にある樹下神社の境内にある。
守山のこの辺り(三宅町、大門町、欲賀町、横江町等)は、平安時代、「木綿園ゆうその」と呼ばれていたそうだ。
木綿を日本でいち早く栽培した地方のひとつという。
その「木綿園」を詠んだ歌の碑である。この歌は『千載和歌集』に載るという。
『千載和歌集』は、平家都落ちのとき忠度が俊成に歌を託し、その歌の一首が「読人しらず」として載せられた歌集だ。
その『千載和歌集』に、ちゃんと歌碑の木綿園歌が載っている。
神うくる豊の明かりに木綿園の日蔭葛ぞ映えまさりける 宮内卿永範
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自転車の散策をしていると、その土地土地のいろんな文学や歴史に出会えそうだ。
それを持ち帰って家で、本で調べ直す。その時間がとても楽しい。わくわくの時間だ。
大学の講義よりも実践的で、身近な文学・歴史が味わえる。これからますます自転車で出かけることが楽しくなった。
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(碑裏面に) 木綿園(ゆうその)の由来
横江町の辺りは、古代木綿園と呼ばれ、それは木綿の栽培が早くから行われていたためと伝えられている。 .
木綿園村の地名は、古代平安期に見える村名で、千載和歌集、夫木和歌集、長秋詠藻等にもしばしば詠まれている。碑の和歌は
後白河天皇即位、久寿二年(1055)の時の大嘗会の神楽歌である。 .
『横江由縁後鑑録』によると、現在の小字淀ヶ島(古代は糸ヶ嶋)に不播種にして綿木が生え、其綿能く風に随いて糸となり、わが
国最初の綿の根元と記されている。 .
『栗東郡史』にも、延暦十六年(799)印度人三河国に漂着し、その携うる木綿の種を植えさせた最初の植栽地と記されている。 .
昭和58年、横江遺跡の発掘調査の際、6世紀後半の溝から滑石製紡錘車が出土したことは、この事柄と深く関係するものである。
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参考
『歌枕大観・近江篇』 森本茂編著 大学堂書店 1984年
木綿園
木綿園は平安時代の村名で、今日の守山市三宅町付近をいうのであろう。中世の結園(ゆうその)庄は、守山市三宅町、欲賀町、
大門町、大林町、横江町と草津市長束町のあたりという(角川日本地名辞典)。『近江国輿地志略』にみえる湯生(ゆき)庄は結園
庄の後身か。 .
鳥羽院大嘗会悠紀方和歌 近江国 天仁元年十一月二十一日 .
為大宰権師 四尺御屏風六帖、和歌十八首 木綿園村卯花盛夜入見之 .
をちこちの卯の花月夜明かければ昼とぞ見ゆる木綿園の村
久寿二年院の御時、大嘗会の悠紀方の神楽の歌、近江国木綿園をよめる 宮内卿永範 .
神うくる豊の明かりに木綿園の日蔭葛ぞ映えまさりける
仁安元年、悠紀方歌よみて奉るべきよし、宣旨ありしかば、先々常は儒者などこそ仕うまつる
をいかが、と辞し申すを、なほよみて奉るべきよし、御気色あるよし、行事弁俊経朝臣たびたび
示し送りしかば、よみて奉りし歌 悠紀方 近江国 風俗和歌十首 同日楽急 木綿園 .
木綿園の日蔭の葛かざしもて楽しくもあるか豊の明かりに
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守山 木綿園