紫式部 おいつ島
近江八幡市北津田町
百々神社鳥居前、長命寺川沿いに、紫式部の歌碑が立つ。
みづうみに、おいつ島といふ洲崎に向ひて、わらはべの浦といふ入海のをかしきを、口ずさみに
おいつ島 島守る神や いさむらむ 波も騒がぬ わらはべの浦 『紫式部集』
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紫式部父藤原為時は、かつて式部丞だったから、その娘はその官職から藤式部と呼ばれ、さらに『源氏物語』の紫の上が
すばらしい女性と描かれていたため紫式部と呼ばれたとか。いやたんに、藤が紫色だから紫式部になったとも。
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父の為時は、花山天皇の御代に式部丞となったが、天皇が出家退位してしまうと官職を失った。10年間も続いた。
長徳二年(996)、一条天皇の御代、ようやく淡路守に任じられた。ところが、この為時なかなか強気な人で、
そんな小国では不満と天皇に申し文を書いた。そうすると、その文がとても名文で天皇の心を動かし、
それなら越前守にしてやろうとなった。文句一言で転勤先を変更してもらったのだ。
長徳二年夏、紫式部は父の転勤に付いて越前(今の福井県)に下った。琵琶湖の西岸をたどりつつ。
ところがその頃、紫式部は、藤原宣孝から求婚を受けていた。そのとき宣孝は44、5才、しかも3人もの妻がいたという。
私が式部の父親なら、そんな4人目の妻なんて結婚は許さん。
だけど式部は結婚を決めた。越前の1年余の生活に別れ、父とも別れて、今度は琵琶湖の東岸沿いをひとり京に帰った。
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その時に詠んだ歌の歌碑である。
おいつ島とは、現在の長命寺山だといわれる。山麓に奥津嶋神社があり、「おきつしま」は「おいつしま」に同語であろう。
長命寺が山腹にあり、その境内からは、「わらはべの浦」だろうか、静かな琵琶湖が見下ろせる。
「おいつ島」の周囲は、干拓で大きく変貌してしまった。
おいつ島(長命寺山)は、今は陸続きだが、紫式部の当時は名の通り「島」であった。
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