琵琶湖疏水

大津市・疏水沿い

琵琶湖疏水は、大津市三保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上へと流れる人工の水路である。延長約9km。

京都市の飲料水、発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案された。

第一疏水は明治18年(1855)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23年に開通。第二疏水は明治45年(1912)に完成。

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取水口

疏水は三井寺の山裾に向かう。

山下に入る第一トンネル

この疏水の工事が国家的事業であったことを示すものに、隧道の各洞門には著名人が揮毫した扁額が掲げられている。

この第一トンネルの扁額は伊藤博文の揮毫。

「氣象萬仟」 きしょうばんせん

様々に変化する風光はすばらしい、という意味らしい。

疏水の上を京阪電車が走る。(石山坂本線)

石山寺と日吉大社・延暦寺を結ぶという、チョー観光電車である。でも普段は庶民の足。

4月の桜の頃はこの電車もいっぱいの人、

疏水の桜はこんなにきれい。

明治維新で都が東京に遷り、活気を失っていた京都の復興を目指して、疏水は建設された。

疏水の水は、水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられた。

生み出された電力によって、工業が発達し、日本初の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していった。

琵琶湖の豊かな水を引いたことが、京都の発展をもたらした。

多くの恵みを京都にもたらした琵琶湖疏水は、今も水道や発電などの水として、市民の生活を支える源となっている。

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疏水の取水口がある三保が関は、疏水堀削のときに埋められた岬であったが、

明治26年(1893)、三高水上運動部がはじめて競技用のボートを進水させ、第一回琵琶湖周航に出発したところである。

その発祥の地に、記念として立てられた碑がある。

「われは湖の子」と刻され、副碑に「琵琶湖周航の歌」の歌詞が刻されている。

琵琶湖周航の歌

われは湖の子 さすらひの 旅にしあれば しみじみと のぼる狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば

松は緑に 砂白き 雄松が里の 乙女子は 赤い椿の 森陰に はかない恋に 泣くとかや

浪のまにまに 漂へば 赤い泊火 なつかしみ 行方定めぬ 浪枕 今日は今津か長濱か

瑠璃の花園 珊瑚の宮 古い傳への 竹生島 佛の御手に いだかれて ねむれ乙女子 やすらけく

矢の根は深く 埋もれて 夏草しげき 堀のあと 古城にひとり 佇めば 比良も伊吹も 夢のごと

西国十番 長命寺 汚れの現世 遠く去りて 黄金の波に いざ漕がん 語れわが友 熱き心

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晴輪雨読 サイクルロード

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