茶臼山古墳
大津市秋葉台
『日本書紀』天武天皇元年七月の条に、
・・・・・ 大友皇子・左右大臣等、僅に身免れて逃げぬ。男依等、即ち粟津岡の下に軍す。・・・・・中略・・・・・
壬子に、男依等、近江の将犬養連五十君及び谷直塩手を粟津市に斬る。是に、大友皇子、走げて入らむ所無し。
乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。時に左右大臣及び群臣、皆散け亡せぬ。唯し物部連麻呂、且一二の舍人のみ従へり。
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壬申の乱、大友皇子最期の記述である。
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大津市膳所秋葉台に、茶臼山古墳がある。
4世紀後半の前方後円墳とされ、彦坐王のものと伝わるが、
前方部には秋葉神社があり、後円部には大友皇子以下の5基の塚がある。
石で囲まれた塚5基
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由緒碑に、
法伝寺古記によれば、壬申秋七月大友軍瀬田に敗れ、二十三日皇子粟津岡南小高山前に崩御、側近御遺体を大津宮を望む
粟津岡上に葬りて殉死す。然るに、賊軍の汚名を受け、公然と皇子を祀ること能はず、皇子御子與多王僧になりて、窃かに父を
弔い、遺言して父の廟側に葬らる。
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この茶臼山古墳の後円部に大友皇子は葬られたというのだ。
史実として公認はしてもらえそうにないけど、でもここは『日本書紀』に記された「粟津岡」だ。
ここに大友皇子が眠っていてもおかしくはない。
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茶臼山古墳は、
全長約122m、後円部の径約70m、その高さ13m、前方部の高さ5.5〜8.5m、その幅22.5mを計る。
近江では第二位、湖南地方では最大規模を誇る4世紀末〜5世紀ごろの前方後円墳である。
この古墳の前方部の高さは後円部より低く、広場状を呈している。また、前方部と後円部のつなぎの部分は、ゆるやかな
スロープとなっており、こうした前方後円墳の本来の姿を良くとどめている。
墳丘斜面には石が葺かれ、後円部墳頂にはかつて円筒埴輪や形象埴輪が並べられ、古墳をかざっていたようである。
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茶臼山古墳