今井兼平墓

大津市晴嵐2丁目

ここ粟津は、木曽義仲と今井兼平の最期の地、

義経の軍に都で敗れた義仲は、乳母兄弟の今井兼平をさがして近江に落ちた。

ふたりは折りよく落ち合うことができたが、「粟津ヶ原」ではたったの五騎になっていた。

その五騎の中に義仲の愛妾巴御前もいたが、女だからと去らせ、義仲と兼平は最期を迎える。

義仲の最期がちょっとかっこ悪い。

兼平が敵をくいとめているから、義仲は大将、敵の手にかかるより、あそこに見える粟津の松林で自刃せよという。

義仲は馬で松林に向かうが、途中、ぬかるんだ田んぼに馬が足をとられ動けなくなってしまった。

そこに敵の雑兵が駆け寄ってきて、首を刎ねられてしまった。

かっこ悪い死に様になった。

これを見ていた兼平、がっくりきたが、ここからこの男はすごい、壮絶や。

もう自分の役目は終ったと、「太刀のさきを口に含み、馬よりさかさまにとび降り、つらぬかてぞうせにける」(『平家物語』)とある。

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今井兼平の墓所

義経に敗れた木曽義仲は今井兼平といっしょに死にたいと近江に落ちのびた。そして願ったように、この粟津で最期を迎える。

主人の最期を見とどけ兼平も自刃する。

そんな信じあった義兄弟のふたりが同所で亡くなったのに、ふたりの墓所は別々。

義仲は、まさに義仲寺の境内に眠る。横には、巴、山吹というきれいな女性の塚もあって、あの世でも両手に花である。男冥利につきる。

後世、わたしもそばにいたいと、芭蕉までもが横に眠ることになった。

なのに、一番の忠臣兼平は、ひとり淋しく離れた墓所で眠る。

なんでいっしょにしてあげないのだろう。ふたりは、生まれたときもいっしょで、同じ乳房の乳を吸い育った。

そして、死ぬときもいっしょだったのに・・・・・。

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勝海舟「粟津原合戦 史跡顕彰碑」

元治丙寅のくれの秋粟津の里、昔兼平が討死せし處を尋ねし時

勝海舟

染出し 粟津のくろの むら紅葉 ちりての後ぞ いろいでにけり

元田永孚詩碑

死生唯主に報ゆ 終始節は弥堅し 正諫納れ難しと雖も 一心頁天ならず

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兼平の武勇と忠義を讃える餅がある。「兼平餅」という。

 

銘菓「兼平餅」の由来によると(抜粋)、

寿永三年正月粟津ヶ原の合戦に朝日将軍木曽義仲に殉じて壮烈な自刃を遂げた今井兼平の墓があり、

東海道を上り下りする武士や文人は、兼平の忠諫剛勇は武人の亀鑑であるとして、三軒茶屋で休息して参詣する者が絶えなかった。

三軒茶屋の小田原屋は「兼平餅」で有名であった。この付近の蓬で蓬餅を搗き黒砂糖餡を包み、その上に黄粉をまぶしたもので、当時一皿三個八文であった。

俳人芭蕉をはじめ、大石義雄、近くでは勝海舟もこの餅を喫賞している。

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という餅である。なかなか美味な餅で、現在は一皿三個八文ではなく、240円也。

今は小田原屋ではなく、旧東海道・膳所辺りの「亀屋廣房」という和菓子屋さんが作っている。

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