石山貝塚

大津市石山寺1丁目

石山寺の駐車場付近に、「石山貝塚」の石碑が立っている。

ここに縄文時代の貝塚があった。

東西20m、南北50m、厚さは2mの層にも達するという。

セタシジミを中心として淡水の貝で形成されている。アサリ、ハマグリ、サザエなどの海水の貝は一片もでない。あたりまえ。

8000年前の遺跡というからすごい。石山寺もなく、紫式部もいない。8000年前ってだあれも知らん。

それでもここに人が住んでいて、瀬田川で採れるセタシジミを食べて生活していた。

縄文時代やから、お米がない。「しじみご飯」は作れない。しょう油も発明されていないから、「しじみのつくだ煮」も作れない。

味噌もないから、「しじみ汁」もつくれない。

貝塚ができるほどに好んで食べた貝だけど、どんな料理を作って食べたのだろう。縄文貝塚のお母さんたちは・・・。

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現在では石碑の前の食堂で「しじみ料理」を食べることができる。

8000年たっても、人は同じものをおなじ場所で食べている。

この食堂、食べ終わった貝殻、どこに捨てているんやろ。これから8000年後には貝塚になる。

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そして当地では、シジミなど貝にちなむお菓子があって、

 

たにし飴 と しじみ最中

8000年間、しじみにお世話になりっぱなし。

石山寺に参詣の折には、是非、しじみ飯・しじみ汁をめしあがれ。

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案内板には、

貝塚は、東西約20m、南北約50mの広がりをもち、最も厚いところで2mの厚さをもち、セタシジミを中心とする10種類の淡水の貝で

形成されている。                                                                     .

貝層からは、炉跡や手足を折り曲げた屈葬人骨が発見、その中の一体は貝製の首飾りを身につけていた。               .

また、縄文式土器をはじめとして、石斧、石匙、石鏃などの石器類、狩猟道具や日用品としての骨角器、骨や貝で作った装飾品など

多数の遺物が出土した。なかでも縄文式土器の中の一群は、石山式土器と命名され、縄文時代早期(今から8000年前)を代表する

土器になっている。                                                                   .

さらに、貝類のほか縄文時代の人々が食べたサル、イノシシ、シカなどの獣や、コイ、フナなどの魚の骨も多数出土しており、当時の

人々にとっては住みよい環境の土地fだったようだ。                                                 .

しかしながら、遺物の大部分は縄文時代早期のもので、この後の時代のものはほとんど発見されておらず、前期以降、急激に人々の

生活が絶えている。この理由としては、瀬田川下流の鹿跳付近の川底が流れのため削られ、琵琶湖の排水量の変化が起きて、魚介

類の激減がひきおこされ、この遺跡を絶えさせたということが考えられる。                                   .

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石山貝塚

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