国指定史跡  衣川廃寺跡

大津市衣川2丁目

衣川廃寺は、7世紀に建立された古代寺院である。

堅田丘陵の東端、琵琶湖から西へ約900m、標高約106mにあり、琵琶湖水面との比高は約20mを測る。

史跡地のほぼ中央西よりと南半分東よりに、版築によって築かれた2つの建物基壇は、それぞれ金堂と塔の基壇と推定されている。

南側の斜面には、屋根瓦を焼いた瓦窯が築かれている。

また、金堂基壇の下からは寺院造営に関係する工房と考えられる竪穴遺跡が見つかっている。

衣川廃寺から出土した軒丸瓦の文様には、単弁蓮華文や複弁蓮華文、忍冬文などいろいろな種類のものが認められ、

衣川廃寺の特徴の一つとなっている。

その他には塔のミニチュアである瓦塔も出土している。

衣川廃寺は、古代寺院がどのように造られていたのか、仏教が日本に伝来して各地方へどのように広まっていったのかを

考える上で、重要な遺跡である。

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塔基壇

この基壇は、平面形が正方形を呈し、塔を建てるために築かれた基壇と推定される。

基壇は、版築という少しづつ土をたたきしめながら盛り上げていく土木技術によって強固に築かれている。

調査では、50cmほどこうした版築の土層を確認している。

基壇の周囲は特別な外装を施すことのない簡素なものである。

基壇上部からは、中心柱の台石である心礎や周囲の礎石などは見つからなく、どのような塔が建っていたのかわかっていない。

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金堂基壇

この基壇は、東西約18m、南北約15mのもので、南を正面とした横長の建物があったものと思われ、

伽藍の位置とその形状から、金堂の基壇に推定されている。

塔基壇と同様に版築工法によって築かれ、基壇周囲の外装もない。

基壇上からは、礎石を安定させるための根石の痕跡が見つかり、ここに礎石が置かれていたことが知られるが、

礎石自体はすでに失われていた。

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金堂基壇の築成

基壇はその上に建つ堂塔をしっかりと安定させるため、強固に造らなければならない。

金堂基壇は整地のための盛土の後、土をたたきしめながら土盛りをする版築によって築かれた。

版築工法にも、1層の単位が比較的厚い下層のものと、薄く細かい上層のものの2種の工程がある。

また、金堂基壇北辺の一部では、瓦と石を敷き詰めた遺構が見つかっている。基壇築成過程の一部、もしくは基壇裾に敷かれたものと考えられる。

この遺構が基壇裾になるものとすると、金堂基壇の北東部分は2.3m以上の高さをもつものとなる。

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工房と考えられる竪穴遺跡

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瓦窯

この窯は、斜面を利用してトンネルを掘って造られた「あな窯」と呼ばれるものである。

薪などをくべる鳥居形の石組をもつ焚口、炎が燃え盛る燃焼部、粘土で成形した瓦を置き並べた階段状の燃成部、

もっとも上部に煙だしがある。熱効率をあげるための排水施設が燃焼部床下に備えられている。

寺を建てるためには大量の瓦を必要としたため、壊れたところを修理しながら何度も使われたようである。

焼きあがった製品は取り出されるが、焼き損じた不良品は真っ黒な灰とともに掻きだされ、層になったものが灰原である。

衣川廃寺の建立に必要な屋根瓦を焼いたこの窯は、天井部もくずれることなく今日まで残った貴重な資料といえる。

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衣川廃寺の建立過程

衣川廃寺は丘陵の先端部に造られている。そのため、最初に北側の斜面地を造成し、敷地を整えた後、

金堂基壇の工事に取りかかるとともに、南西斜面には瓦窯を築き、屋根瓦がつぎつぎと生産された。

塔基壇の工事も進めつつあったが、塔は当初の計画どおりには完成しなかった可能性がある。

また、新たな堂塔の建設を見ることもなく、寺院の建立は何らかの事情で中断したようである。

その後は小規模ながら宗教的な一面を覗かせていたが、平安時代の終わり頃には廃寺となったようである。

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大津 衣川廃寺

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