弘文天皇陵  大友皇子

大津市園城寺町

大津市役所のちょうど裏にあたるところに、弘文天皇陵はある。

弘文天皇とは、天智天皇の息子で、大友皇子のことである。

壬申の乱で、叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗れ、自害した。

親父の天智天皇から、太政大臣に任じられたが、まもなく天智天皇は崩御、

翌年、壬申の乱が始まってしまったから、天智天皇の後、大友皇子が即位して天皇になったかどうか、史料は語らない。

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大友皇子は、天武元年(672)六月、壬申の乱で敗れて、

「壬子(23日)、走げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ」とある。

「山前やまさき」というところで自殺したというのだが、その山前がどこかよくわからない。

山前はどこか?いろんな説があって、

@ 近江国滋賀郡の長等山(現在の大津市園城寺町)

A 河内国茨田郡三矢村山崎(現在の枚方市三矢)

B 河内国交野郡郡門((現在の交野市郡津)

C山城国の山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町) などなど。

山前って、山の前という普通名詞やから、そんなのどこかわからんという説もある。

ただし、

「乙卯(26日)、将軍等不破宮に向づ。因りて大友皇子の頭を捧げて、営の前に献りぬ」とあり、

大友皇子の首は、岐阜・不破で待つ大海人皇子に届けられた。

だから、当時どこで大友皇子が自害したかは判っていたのだが。

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明治3年、突然、

大友皇子の諡号を弘文天皇とする、と決った。明治になって初めて天皇と呼んでもらった。

さらに、長等山麓にある古墳、あれが大友皇子の墓であろうから、弘文天皇陵とする。長等山前陵と称す。1200余年後、ようやく決定である。

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もうすこし裏話

大友皇子は明治になるまで漢風諡号をもたなかったけれど、明治3年、明治天皇が「弘文天皇」と追称した。

そして、弘文天皇の御陵がないのは困ったことだということになり、

明治10年、

膳所茶臼山古墳、鳥居川御霊神社、京都府乙訓郡大山崎町などの候補地の中から、

園城寺境内の一画にあった「亀丘」と呼ばれる円墳を選び、ここを弘文天皇の御陵とすると決まった。

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陵墓選考当時の資料、「亀丘の断面図」と「出土した銅鏡」

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大津 弘文天皇陵 大友皇子

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