湖水渡り 明智左馬之助光春
大津市打出浜・柳が崎
琵琶湖岸打出浜に、光春湖水渡りの石碑が立つ。
明智左馬之助光春は明智光秀の従弟ともいわれ、女婿ともいわれるが、
『明智軍記』などの物語にのみ登場する人物で、実在の人物か定かでないらしい。
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天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、
高松城の水攻めをしていた豊臣秀吉は、信長の悲報を聞き、和議を結び、急いで都に戻って光秀を討った。
光秀は小栗栖で殺された。
安土城を攻めていた光春は、光秀の死を聞いて坂本城に逃げ帰る途中、ここ打出浜で堀秀政の軍とぶつかった。
味方は少勢だったので、馬に乗ったまま飛び込み、泳いで湖水を渡り、坂本城に戻ったという。
しかし、時すでに遅く、秀吉の軍勢に囲まれ、光秀の妻女らとともに城と運命をともにした。
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大津市柳が崎に「駒止めの松」がある。
石碑には「明智左馬之介光俊駒止松」とあり、ちょっと名前が違う。でも同じ人のことだろう。
この松は明智光秀の女婿明智秀満(左馬助光春)が湖水渡りの馬を繋いだといわれている。
(細い松で、何代目かの松なのであろう)
打出浜から馬に乗ったまま湖水を浮き沈みしながら、ここ柳が崎に上陸し、この松に馬を繋ぎ止めたという。
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ここから坂本城まではまだだいぶ距離がある。
この馬でふたたび駆けたのか、泳ぎ疲れた馬はあきらめ、駆け足で城に戻ったのか。
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