勾当内侍墓

大津市今堅田

 勾当内侍廟 道標

 勾当内侍者 左中将義貞公之夫人也 公結纓後来於此 辞世云

 内侍曾潜出嶋深 怨兼湖海幾千尋 艶姿映水数株柳 人道夜来鼓瑟琴

 

 勾当内侍は 左中将義貞公の夫人なり 公結纓の後 此に来れり

 辞世に云う

 内侍曾て出嶋に潜むこと深く 怨みは湖海を兼ねて幾千尋

 艶姿水に映ず 数株の柳 人は道う夜来瑟琴を鼓すと

勾当内侍を祀る野神神社

 

勾当内侍の墓

 

勾当内侍は藤原行房の妹で、後醍醐天皇に女官として仕え、のちに新田義貞の妻となった。

延元元年(1336)、義貞は足利尊氏軍と戦ったが利あらず、同年十月、恒良親王、尊良親王を奉じて越前に向かう途中、

内侍をこの今堅田に残した。

その後、延元三年(1338)七月二日に義貞が越前国藤島で戦死したと伝え聞いた内侍は、悲しみのあまり近くの

琴ヶ浜に身を投げたという。

村人たちは、内侍を哀れに思って塚を築き、

明応六年(1497)内侍の遠忌のときには、塚の場所に社を建て、野神神社と呼ぶようになった。

内侍の命日が旧暦九月九日だったところから、現在新暦の十月九、十日を中心に、

内侍の霊を慰めるために例祭が行われている。

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以上は近江国堅田に残る史話であるが、

『太平記』によると、

義貞の死後、勾当内侍は京都・嵯峨にある往生院で、義貞の菩提を弔って余生を送ったとされる。

『平家物語』で有名な滝口寺は、元往生院のあった所で、

滝口寺境内には、義貞の首塚と内侍の供養塔がある。

 

新田義貞は、後醍醐天皇の倒幕に加わり、鎌倉幕府陥落に功績があった。

それで天皇の女官である勾当内侍を妻にすることができた。

そして、建武の新政が始まったが、新政から離反した足利尊氏を、義貞らは京都で敗り、尊氏は九州に逃げた。

新政権が逃げた尊氏を追撃しなかったのは、

義貞が勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時を逸したと『太平記』は描いている。

そして遂には、これが義貞を滅亡へと導くことになる。

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私が義貞だったら、

やっぱり勾当内侍と離れるのいややから、九州まで追っかけず、京都に残ったと思う。

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勾当内侍墓 野神神社

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