長等の山桜

大津市三井寺町

平忠度の歌に、

さざ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山さくらかな

むかしながらの「ながら」は、近江の歌枕「長等」、長等山を掛けているのであるが、

後世、この長等に琵琶湖疏水が造られ、今もなお桜の名所となっている。

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忠度は都落ちの朝、歌集1巻を藤原俊成に託した。

後年俊成は、勅撰『千載和歌集』にこの一首を「詠み人知らず」として入れた。

忠度は賊臣となったから。

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『平家物語』巻第七忠度都落に、

薩摩守忠度は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎取て返し、五条三位俊成卿の宿所におはしてみ給へば、

門戸をとぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「おちうと帰りきたり」とて、その内さはぎあへり。薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給

ひけるは、「別の子細候はず。三位殿に申べき事あて、忠度がかへりまいて候。門をひらかれず共、此きはまで立よらせ給へ」との給へば、

俊成卿「さる事あるらん。其人ならばくるしかるまじ。いれ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の躰何となう哀也。薩摩守の給ひけるは、「年

来申承はて後、をろかならぬ御事におもひまいらせ候へども、この二三年は、京都のさはぎ、国々のみだれ、併当家の身の上の事に候間、

そらくを存ぜずといへ共、つねにまいりよる事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はやつき候ぬ。撰集のあるべき由承候しか

ば、生涯の面目に、一首なり共御恩をかうぶらうど存じて候しに、やがて世のみだれいできて、其沙汰なく候条、たゞ一身の歎と存候。世し

づまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はゞ、一首なり共御恩を蒙て、草の陰にてもうれしと存

候はゞ、遠き御まもりでこそ候はんずれ」とて、日ごろ読をかれたる歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首書あつめられたる巻物を、今は

とてうたゝれける時、是をとてもたれたりしが、鎧のひきあはせより取いでて、俊成卿に奉る。三位是をあけてみて、「かゝるわすれがたみを

給りをき候ぬる上は、ゆめゆめそらくを存ずまじう候。御疑あるべからず。さても只今の御わたりこそ、情もすぐれてふかう、哀も殊におもひし

られて、感涙おさへがたう候へ」との給へば、薩摩守悦て、「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世にお

もひをく事候はず。さらばいとま申て」とて、馬にうちのり甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥にみをくてたゝれたれば、

忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとゞ名残おしうおぼえて、涙ををさへ

てぞ入給ふ。                                                                           .

其後世しづまて、千載集を撰ぜられけるに、忠度の有しあり様、いひをきしことの葉、今更おもひ出て哀也ければ、彼巻物のうちにさりぬべき

歌いくらもありけれ共、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、読人しらずと入られける。

さゞなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな                                               .

其身朝敵となりにし上は、子細にをよばずといひながら、うらめしかりし事共也。                                   .

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長等山山上に歌碑があり、

さざ浪やしがのみやこはあれにしをむかしながらの山さくらかな

己申夏日 従二位藤原朝臣正風書

と刻む。己申は明治41年のこと。裏面には「大正三年六月建設 大津市」とある。

揮毫は、明治天皇の御歌所所長高崎正風のこと。

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長等神社境内には、模刻した歌碑がある。

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