露皇太子遭難の地
大津市京町2丁目
明治24年(1891)、大津を訪問中のロシア皇太子ニコライが、
警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられた「大津事件」の現場である。
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大津事件
明治24年(1891)5月11日、明治天皇の日露皇室外交の一環で、国賓として招かれていたロシア帝国皇太子、
ニコラス・アレキサンドロヴィッチ親王(24才)=後の皇帝ニコライ二世=一行は、琵琶湖遊覧の後、大津市下小唐崎町
(現在の京町2丁目)に差しかかった。沿道の警備に当っていた巡査・津田三蔵(36才)は、日本刀仕立ての帯剣を抜き、
いきなり人力車に乗るニコラス皇太子に二度にわたって斬りつけた。皇太子は首や背に重傷を負ったが、一命はとりとめた。
日露関係が微妙な時期、日本国中を震撼させる事件になった。
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津田巡査がなぜ凶行に及んだのか、諸説あるが真相は明確ではない。
一説には、こんな荒唐無稽な話がある。
津田は明治10年の西南戦役で功績があり勲章を授かったが、死亡したはずの西郷隆盛が生存していて、皇太子の軍艦に
乗って上陸するというデマを信じ、勲章を取り返されるという恐怖から事件に及んだ。(笑うわ)
また、皇太子が皇居への挨拶を後回しにして、観光を優先したという不敬説、
三井寺に建立された西南戦役石碑を踏みつけたという説、
あるいは、ロシアが将来日本を侵略するため、軍人を伴って日本の地理や国情を視察に来たというスパイ活動を防止する説、
諸説あるが、津田は語らなかったようである。
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事件後、ロシアが日本に攻め寄せるのではという恐怖感が政府や国民をおそったが、ロシア皇室からの謝意があって落着した。
津田巡査を取り押さえた人力車夫二人に、多額の謝礼が贈られたが、そのひとりは遊興に使い果し身を持ち崩すという
事件が思わぬ人生を歩ませたこともおこった。
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政府は津田巡査の死刑要求を強行したが、時の大審院長、児島惟謙らは断固はねつけた。
これが後の日本の法体系、法と国家権力との関係に大きな影響を及ぼすことになる。
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その後、
ニコライ二世は、司馬遼太郎『坂の上の雲』にも登場する皇帝だが、日露戦争敗北後、
1917年ロシア革命が起り、翌年ニコライ皇帝一家はロシア・ウラル地方で銃殺された。
そして、
1991年、その地で9体の遺体が発掘され、皇帝一家ではないかと確認作業が続けられた。
が、遺骨は全身に硫酸がかけられていて男女の識別もできないほどであった。
そのため、1993年滋賀県立琵琶湖文化館に保管されている津田巡査襲撃のときの血染めのハンカチ、
血痕の残る座布団などが鑑定のために提供された。
DNA鑑定の結果は、残念ながら合致しなかったという報告を受けたという。
血の量が少なく変質していて、判定には役に立たなかったというのが事実らしい。
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ところが同年、英国・内務省法医学研究所は、発掘された遺骨は本物であるとという鑑定結果を発表。
証拠となったのは、エリザベス女王の夫フィリップ殿下など一家の親類がもつDNAが一致したという。
ニコライ二世の妻の姉がフィリップ殿下の祖母に当ることから、同殿下のDNAによって妻と娘たちの骨がわかった。
ニコライ二世の骨の特定には、別の親類のDNAが使われたという。 (930710・京都新聞ほか)
DNAは、母親を通じてそっくり同じものが子に伝わるのが特徴で、これによって母方の先祖をたどれるのだ。
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余談
津田巡査に斬りつけられた皇太子は、現場近くの呉服商永井長助さん方へ駆け込んだ。
永井さんは傷口を水で洗ったり、商品のさらし木綿を巻くなどの手当てをした。
このエピソードがロシア国内で話題となり、以後、来日したロシア人が永井さん方を訪れ、名刺を差し出して感謝の意を表した。
名刺は10年間で約150枚を数えた。永井さんはこれを名刺帳2冊に整理し保存した。
しかし、こんな永井さん宅も、日露戦争のときは「敵国と親しい家」と通行人から投石を受けることもあったという。
2冊の名刺帳は現在大津市歴史博物館に寄贈されているそうである。 (910117・京都新聞)
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