大津城跡

大津市浜大津

現在の大津港、この辺りに大津城本丸があったという。

国道沿いに、ぽつりと「大津城跡」の石碑が立つ。あとは何もない。

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大津城

豊臣秀吉は、天正十年(1582)の本能寺の変の後、明智光秀の坂本城を廃し、天正十四年(1586)浅野長政に命じて大津城を築いた。

その後、城主は増田氏、新庄氏と替わり、文禄元年(1595)京極高次が城主となった。

浅井三姉妹(茶々・お初・お江)のお初が正室となった京極高次である。

慶長五年(1600)、まもなく関ヶ原の戦いが始まろうとしているとき、

高次は、はじめ西軍に属していて北陸方面に出兵したが、途中東軍に寝返って大津城に帰り籠った。

西軍1万5千の兵が囲み、9月14日、ついに降伏して開城、高次は園城寺で剃髪、高野山に逃れた。

この9月14日までもちこたえた10日あまりの籠城が重要で、

翌日の9月15日が天下分け目の関ヶ原、大津城を囲んだ1万5千の西軍を足止めにしたことになった。

この功で高次は徳川家康から若狭小浜城8万5千石を与えられた。

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、9月20日ここ大津城に入り、

9月21日、近江国伊香郡古橋で捕まった石田光成がここ大津城に連行され、家康は検分した。

光成は、10月1日京都六条河原で首を斬られ、三条河原に晒された。

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秀吉から家康への激動の時代、大津城の果たした役割は大きい。

高次が若狭へ移ってまもなく大津城は廃され、膳所城が築かれることになる。

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