近江国分寺跡

大津市野郷原1丁目

瀬田廃寺跡

この地は神領小字桑畑といい、聖武天皇天平三年(741)勅命により諸国に国分寺が建立された時、近江国分寺として造営された寺跡と

伝えられ、『日本紀略』には「延暦四年(785)灰燼に帰したと記されている。

明治以降瀬田小学校の学林として保存されていたが、名神高速道路の敷設に伴ない、昭和34年7月、発掘調査をした結果、

塔・金堂・講堂・僧坊・回廊の跡が発見された。

碑の立つここは塔跡とされ、この北側(名神高速道路で削られたところ)に金堂があり、塔と金堂が南北に配置する伽藍型式は、

四天王寺式と呼ばれるものに相当すると思われる。

近江国庁の西辺の真南にあたる位置にあり、その位置関係などから近江国分寺である可能性が高いとされる。

奈良時代に建てられた近江国分寺は延暦四年に焼失し、瀬田川の対岸、国分の地に移されたと思われる。

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近江国分寺跡

大津市光が丘町

大津市立晴嵐小学校の校庭の一角に、近江国分寺跡の碑が立つ。

瀬田廃寺跡の説明によれば、延暦四年以降に、この地に国分寺が移築されたことになる。

子どもたちの勉強する小学校内のため、ぞろぞろと団体での訪問は遠慮したいし、

できれば学校の休みの日に、当直先生の許可を得て訪ねたいものだ。

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ほらの前の礎石(通称へそ石)

大津市国分2丁目

民家の傍らにこの大きな礎石がある。

この石は、その大きさから塔に心柱を支える礎石ではないかと云われている。

しかし、あまりに巨大であるため、はたして実際に使われたかどうか疑問がある。

ここに寺があったことを証明するものが何もないからである。

奈良時代この地周辺は、国昌寺や国分寺、また淳仁天皇の保良宮等があった場所でもあり、そのどれにあたるかは断定できない。

このように、不明な点が多いが、堂々たる礎石の姿はみごとで、この地の歴史を語るうえにおいて見逃せない存在である。

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近江国分寺跡

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