国指定史跡 崇福寺跡

大津市滋賀里町甲

崇福寺は、天智天皇の勅願によって、天智七年(668)に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺とも呼ばれていた。

昭和3年と昭和13、14年の調査により、三つの尾根上に礎石建物が建てられていたことが明らかになった。

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「志賀の大仏」からさらに山道を登る。崇福寺跡の案内があるが、道が二つに分かれる。先ずは、「金堂跡・講堂跡」への左の道をとる。

 

南の尾根上の平らな地に着いた。

紅葉の秋も美しいが、今日の新緑の季節もまたすばらしい。

正面奥の東側には、五間四間の南面する建物があり、講堂跡と考えられている。右手が金堂跡である。

金堂跡の基壇には「崇福寺址」の碑が立つ。

西側にあたり、約5.5m四方の基壇を設けた金堂跡と考えられ、五間四間の南面する建物跡がある。

苔生す礎石が美しい。礎石らしく上面はいかにも水平だ。

再びもとの道に戻ると、金堂跡、塔跡への案内がある。

山道の谷を下り、木の小橋を渡る。ちょっとした登山気分だ。

 

中尾根に着く。

手前が小金堂跡、奥が三重塔跡である。

ここが三重塔跡。

ここが塔心部、

塔基壇の地表下1.2mにある塔心礎側面の小孔から舎利容器や荘厳具が出土した。

舎利容器は、金銅製外箱、銀製中箱、金製内箱と琉璃壷からなり、

それを中心に、周囲に鉄鏡、無文銀銭、銅鈴、硬玉製丸玉などが置かれていた。

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ここから北の尾根をめざす。

途中、金仙滝があるが、近くの道はがけ崩れ、恐々として足早に越える。

 

金仙滝・霊窟

ある日、宮の乾(北西)の方向に霊窟があるという不思議な夢を見た天智天皇は、その夢でいわれたとおり翌朝、

この地に来たところ、一人の僧侶と出会い、ここが仙人の住む霊窟であると云う話を聞いた。

このことが、崇福寺建立のきっかけになったということである。

北の尾根上、弥勒堂跡に着く。

瓦積み基壇を設けた建物で、礎石の配置から五間三間の建物であったと考えられる。

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南の尾根上の建物群と、北、中の尾根上の建物群では、建物の方位や礎石の形状が異なることや、南の尾根上に建物群周辺から

白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在、南の尾根の建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、

北、中の尾根上の建物群を崇福寺にあてる説が有力視されている。

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崇福寺は、壬申の乱によって大津宮が廃都になった後も繁栄を続け、平安時代には十大寺のひとつに数えられるほどになる。

しかし、平安時代末期の、山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途をたどり、鎌倉時代後半頃には

ついに廃絶してしまったようである。

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崇福寺舎利容器

 

心柱を支える心礎は塔跡の中央部、地下1.2mのところに、岩盤を掘り込んで据えられていた。

東西1.82m、南北1.53mの大きさで、南側面が平らにされ、その中央に小孔があけられていた。

入口は蓋石でふさがれており、内部は幅21cm、奥行27cm、高さ18cmの小さな部屋になっている。

内部の壁は蓋石の裏側とともに朱が塗られ、金箔を貼るという豪華なつくりである。

ここに舎利容器を安置し、その内外に各種の荘厳品が納められていた。

紫水晶・ガラス小玉は舎利容器の外箱と中箱の間に入れられ、

その他の鉄鏡・無文銀銭・銅鈴・硬玉製丸玉などは周囲に置かれていた。

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大津 崇福寺跡

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