滋賀県湖南市菩提寺 そして右手には、「地蔵尊像三体」、 舟形の後背に地蔵がそれぞれ浮彫りされている。中央の地蔵が頭に笠石を乗せる。丈は158cm。 中央の地蔵が鎌倉時代、両脇の地蔵が南北朝時代の作らしい。 さらに小道を少し上ると右手に、「閻魔像」、 将棋の駒のような形の石に、中央に閻魔王、さらに如来、地蔵、僧形2体、5体が刻まれている。 この閻魔の石仏にはこんな話が伝わる。 この石仏の丁度右側三分の一ぐらいのところに、たてに割れ目がある。 あるとき、村の石屋が山の中で石を掘り出した。丁度よい石だったので何を刻もうと思いながら割れ目を入れて帰った。 すると、その夜、床に入ってから背中から脇にかけて裂けるような痛みを感じた。 石屋はとうとう一晩中眠れなかった。 そこで不思議に思って、昨日山で見つけた石をひっくり返して調べてみたら、閻魔大王が刻んであった。 そこでさっそく、坊さんを招いて法要をしたところ、痛みはたちまちに治った。 ・・・・・ ふつうの観光案内はこの石仏までで終るが、これから先がすごい。 菩提寺山に向って小道をさらに100mほど上ると、 「埋もれていた阿弥陀仏」という案内板が立ち、山肌に多くの石仏が無雑作に並ぶ。 この辺菩提寺は、土葬が一般的であった時代に、めずらしく火葬の風習であったという。 中世から江戸初期にかけて、阿弥陀仏信仰が流行り、仏教が説く死後の世界で極楽に行けるようにとの願いを込めて、 お墓の傍に阿弥陀仏を置いたものと考えられる。 一番奥の地に、磨崖地蔵 むかし、ここに火葬場があったらしい。 少し山手に、磨崖五輪塔 中世の武士の墓は一石五輪塔を建てたとされているが、これもそのひとつであろう。 五輪塔とは、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪で構成される。 この大石は、大小五つの五輪塔が彫られているが、内二つは未完成である。 未完成のものは、造っている最中の元亀元年(1570)六月五日、佐々木氏の敗残兵による焼き討ちで、 少菩提寺が焼失したときに中断されたのではないかといわれている。 なかなか想像力豊かな見解である。 |
近江の石仏 滋賀県 少菩提寺跡 石造多宝塔