白洲正子
全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。
 
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近江路

 

子供の頃から関西へ行くことの多かった私にとって、近江は極めて親しい国であった。

岐阜を過ぎてほどなく汽車は山の中に入る。やがて関ヶ原のあたりで、右手の方に伊吹山が姿を現わすと、私の胸はおどった。

 
伊吹山

平野に出ると、霞のあなたに琵琶湖が見えつかくれつし、その向うに比良山が横たわっている。雪を頂いていることが多かった。

 
比良山

つづいて比叡山、そして、京都、何十ぺん、いや何百ぺんとなく見た風景であったが、それは汽車の窓から横目で見てすぎただけのことで、

近江は長い間未知の国にひとしかった。

 
比叡山

ともすれば私の足は近江に向い、茫漠たる湖を望んで、人麿の歌を口ずさむこともあった。

  淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば心もしぬに古へおもほゆ

この歌は、わずか五年にして滅びた大津の京への挽歌であるとともに、私自身の憶いでもあった。すぐれた詩歌は人に共感をしいるものらしい。

万葉歌碑  (近江神宮)

万葉時代に、すでに廃墟と化した志賀の都は、そのまま近江の国を象徴しているように見える。律令制という、天智天皇の理想は、ここで発足した

にも拘らず、完成したのは次の時代、飛鳥の京においてであった。国分寺とその本尊の大仏が、創建されたのは紫香楽の宮だが、実現したのは

奈良の都である。・・・・・信長も秀吉も、この国を押えることによって、日本全国を制覇したし、近頃はやりの忍者の集団も、鈴鹿の麓の甲賀から、

伊賀にかけて発生し、地方の大名にやとわれて行った。名だたる近江商人については、今さらいうまでもない。琵琶湖の水が未だに京・大阪をうる

おしているように、近江は日本文化の発祥の地といっても過言でないと思う。・・・・・前に私は「近江は日本の楽屋裏だ」と書いたことがあるが、簡

単にいってしまえば、私の興味をひいたのもそのひと言につきる。

近江は約六分の一が湖水で占められ、古くは「淡海の国」といった。遠江の浜名湖を「遠つ淡海」と呼んだのに対して、都に近い琵琶湖は「近つ淡

海」といい、近江の字を当てたのは、元明天皇の頃と聞く。琵琶湖と称するようになったのは、それより後のことで、竹生島に弁財天を祀ったために、

琵琶を連想したのではなかろうか。そう思ってみれば、琵琶の形に似なくもないが、「さざなみ」という枕言葉に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天

が誕生したと考えた方が、古代人にはふさわしい。

琵琶湖  賤ヶ岳山頂より

琵琶湖東岸  竹生島が浮ぶ

琵琶湖  比叡山山頂より

人間は何よりもまず水を求める。これほど大きな湖が有史以前から、生活の中心になったであろうことは想像に難くはない。その上四方を山でかこ

まれ、山麓に肥沃な平野が開けているのは、理想的な環境であったろう。・・・・・

小篠原の周辺では、銅鐸が二十数個もまとまって出土し、その数においても、美しさの点でも、近江は日本の有数な銅鐸国といえる。

野洲市 大岩山古墳出土銅鐸

そういうことから推察すると、河内や大和より早く開けていたかも知れず、都が造営されたことも一度や二度ではない。ただ、いずれも早く消滅して

しまうのは、大和の勢力が強くなったためで、そういうところにも近江の悲劇がうかがわれる。

古墳時代に、近江は一体どのような位置を占めていたのであろうか。・・・・・大友氏、小野氏、和爾氏、三尾公といったように、比叡の山麓から比良

山のはずれまで、一大古墳群がつづいている。・・・・・日吉大社や白鬚神社のような古い社は、みな祖先の墓の上に建っており、周囲を一族の奥

津城がかためているさまは、彼らがここに君臨した当時の繁栄を彷彿とさせる。

 

白鬚神社  高島市鵜川

安曇川の流域からなだらかな平野となり、ここにも大規模な古墳群が見出される。「稲荷山古墳」よいうのは、三尾の豪族彦主人王の墓と伝えられ、

明治の中頃、金の王冠と装飾品のたぐいが出土した。朝鮮系のものが多いと聞くが、この辺は安曇族の居住地だったから、帰化人の影響が多分に

あったに違いない。彦主人王は、書紀によると、応神天皇五世の孫で、継体天皇の父に当り、後に越前から迎えられた天皇を、帰化人が後援したの

も、この土地とのつながりによる。

稲荷山古墳 石棺  高島市鴨

ここまで来ると、もう観光客には絶対出会わない。春は菜の花が咲き、雲雀がさえずる太古さながらの景色である。今津の町はずれで、若狭街道と

わかれるが、そのあたりから北国の景色となり、松原越しに竹生島が見えてくる。「安宅」の山伏の一行が、「海津の浦に着きにけり」という海津も

近い。昔はここまで船で来て、海津から先は徒歩で北陸へぬけた。お天気のいい日には、湖水をへだてて伊吹山を望まれ、そぞろに古人の旅情が

偲ばれる。都をはなれた彼らにとって、竹生島は一つの心のより所となったであろう。

琵琶湖北端海津からの  竹生島

竹生島がいつも女性にたとえられるのは、その姿が優しいだけでなく、母なる湖を象徴したからであろう。祀られているのも、ツクブスマという女神で、

あきらかに北国の訛りがある。が、はじめは浅井比唐祀ったといい、その方が古いように思われる。現在その名は浅井郡として残っており、この地

方の生えぬきの地主神であった。富士山が噴火した時、琵琶湖が一夜にして陥没し、景行天皇の時代に、竹生島が湧出したという伝説は、その信

仰が非常に古いことを語っている。そして、仏教が入った後、観世音から弁才天へと結びついて行った。

 

都久夫須麻神社  長浜市早崎町(竹生島)

湖北を領したのは、伊香具連という氏族で、現在の伊香郡がその勢力範囲であった。彼らはそれぞれ神体山を擁し、古戦場で名高い賤ヶ岳もその

一つである。湖北と越前の境にそびえる高峰を己高山というが、麓の木之本の周辺には、例によって古墳が点在している。ここに己高七寺と名づけ

る古刹があったというが、今は殆ど廃寺と化し、桜並木の奥に、ふとそうした寺が鎮まっているのを見出す時、湖北の寂しさがひしひしと迫って来る。

  

鶏足寺・十一面観音

戸岩寺・薬師如来

戸岩寺・魚籃観音

己高山の麓に與志漏神社(木ノ本町古橋)がある。その境内に「己高閣」という蔵があり、

ここに鶏足寺の十一面観音が安置されている。

己高閣の隣には「世代閣」という戸岩寺の諸仏を安置する蔵もある。薬師如来、魚籃観音など。

伊吹神社には、今でも伊吹氏という宮司がおられるが、麓の平野はかつて息長氏の所領で、姉川に面して大きな前方後円墳が立っている。これは

敏達天皇の皇后の息長広姫の陵と伝えられ、近江でも特別大きなこの古墳は、皇室と関係の深かった豪族の豊かな生活を物語る。オキナガタラシ

ヒメと呼ばれた神功皇后も、この一族の出であったが、当時は天皇家に匹敵する力を蓄えていたに相違ない。伊吹山のイブキと、オキナガの「息」に

は、何か関係がありはしないか。

伊夫伎神社  米原市伊吹

敏達天皇皇后広姫陵  米原市村居田

彦根から近江八幡へ近づくと、ようやく下界へ降りたという気分になる。高い山はなくなって、平野のそこここになだらかな丘が現われるが、そのほと

んどが由緒ある神体山で、なかでも三上山は群をぬいて美しい。三上は、御神とも書き、四百メートルあまりの低い山だが、不思議なことにどこから

でも目につく。雨の日など、湖水の西側から、墨絵のように浮んでいるのを見る時は、崇高な感じをうけるし、またおもいもかけず信楽のあたりから、

ふと気がつく時には、親しい友に出会ったような心地がする。

今もいったように、富士山と同時に琵琶湖ができたという伝説があるが、そのあまった土が三上山になったという。そのためか「近江富士」とも呼ばれ、

三上の名が示すとおり頂上は三つの峰にわかれている。

三上山と御上神社「ずいき祭り」  野洲市三上

三上山山頂 磐坐

この章をかりに「近江路」としたが、考えてみるとそんな名前の道はどこにもない。そのかわり、東海道、中山道、北国街道、若狭路など、そしてそれら

を結ぶ間道が縦横に通っており、このようなところは他にはあまり見られないと思う。もし、それらの古い街道が、通過するあいだを近江路と呼ぶなら、

それこそ近江の特徴を現わしているといえよう。風光明媚なこの国は、あらゆる点でそういう宿命を負っているらしい。湖水からのぼる水蒸気に、野山

にはいつも霞がただよい、縹渺とした空気がたちこめている。芭蕉が近江を愛したのも、そういうところに、旅情をそそる何ものかを感じたのではなかろ

うか。

     水口にて二十年を経て故人に逢ふ

   命二つの中に生きたる桜かな      (野ざらし紀行)

東海道は、草津で中山道とわかれて南下するが、一番はじめに来る主要な町が水口である。その頃は甲賀郡水口村といった。貞享二年、芭蕉は伊賀

の故里に帰っていたが、京へ上る途中、ここで二十年ぶりに旧友と出会った。故人というのは服部土芳のことである。

水口の大岡寺にこの芭蕉の句碑がある。

 

大岡寺   甲賀市水口町京町

いのち婦たつの中に活きたるさくらかな   芭蕉

・・・・・

水口の西北、東海道にそって、あまり高くない山がつづいており、この丘陵を「岩根」と呼ぶ。高くはないが、奥深い森林地帯で、すぐそばを東海道が走

っているのだが、別の世界のように見える。その名のとおり、岩石の多い所で、山中には善水寺という寺があり、石仏がたくさんかくされている。中でも

少菩提寺跡の石塔はみごとなものである。高さ四・五五メートルの大きさで、仁治二年(1241)の銘がある。見なれぬ形なので、寄せ集めかと思ったが、

そうではなく、近江に特有な二重の多宝塔であるという。いい味に風化しており、その背後に菩提寺山が深々と鎮まっているのは、心にしみる風景である。

菩提寺山山中の石仏

・・・

少菩提寺(廃寺)・石造多宝塔   湖南市菩提寺

少菩提寺(廃寺)・地蔵尊像三体

中尊像高158cm、手には短い錫杖を持ち、舟型光背の中に高肉彫して頭上に笠石をのせている。

中尊は鎌倉時代、両尊は南北朝時代の作である。

少菩提寺(廃寺)・閻魔像

将棋の駒型の石に、閻魔王、如来、地蔵、僧形2体の5体が刻まれている。

石の高さは160cmで、中央に頂上を山形にした矩形の深い彫り込みを作り、中に座高82cmの閻魔坐像を中肉彫している。

東海道とほとんど平行して、東の平野には、近江八幡、八日市、日野などを結ぶ街道が通っている。この辺がいわゆる蒲生野で、外来の文化が色濃く残

っている。近江商人発祥の地であるが、商才にたけた帰化人の伝統であろうか。聖徳太子に関する伝説が、至る所に見られるが、それは四天王寺を建立

した時、帰化人の秦氏が強力したからで、近江で木材を調達したり、瓦を焼いたりした。八日市の太郎坊の山つづきには、瓦屋寺と称する寺院があり、

広々とした境内に、茅葺屋根の本堂が建っている。今は禅寺に変っているが、推古の寺はいつまでも推古の面影を失わないのがおもしろい。四天王寺の

瓦はここで焼き、瀬田川から積み出して、淀川を経て大阪へ送られたのであろう。私は太郎坊の行きずりによってみたのだが、思いもかけず美しい白鳳の

瓦を見、たった一枚の瓦にも、ずしりと重い手応えを感じた。ここでも近江は裏方の役目を果たしていたといえよう。

瓦屋寺本堂   東近江市建部瓦屋寺町

本尊は平安時代の千手観音立像、一本造の素地像である。国の重文で、三十三年一回開帳の秘仏。

天智天皇の二年には、百済が滅び、再び多くの帰化人がこの地に移住した。当時の遺品の一つに、有名な石塔寺の三重の塔がある。それについては今

までに何度も書いたことがあるので、説明は省きたいが、私は日本一の石塔だと信じている。朝鮮系の石工が造ったことに間違いはないが、朝鮮にある

塔とは微妙な違いがあり、日本の美術品と解してさし支えないと思う。どこが違うとはっきりいうことはできないけれど、全体の感じが柔らかく、しっとりとし

て、たとえば高麗の茶碗に似た味わいがある。

石塔寺  東近江市石塔町

・・・

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