白洲正子 全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です。 逢坂越
謡曲「蝉丸」の道行は、京都から逢坂山への道順をかなり詳しく教えてくれる。 花の都を立ちいでて、憂き音に鳴くか賀茂川や、末白河をうち渡り、粟田口にも着きしかば、今は誰をか松坂や、 関のこなたと思ひしに、後になるや音羽山の名残惜しの都や。松虫鈴虫きりぎりすの、啼くや夕影の山科の、里 人もとがむなよ、狂女なれど心は清滝川と知るべし。逢坂の、関の清水に影みえて、今やひくらん望月の駒の歩 みも近づくか、水も走り井の影みれば・・・・・・以下略 だいたい現在の一号線にそっている。粟田口は今では京都の繁華街だが、昔は郊外の静かな場所であったろう。粟田口神社は、東海道と平行して、 南側の岡に建っており、そこが旧道であったと思われる。
粟田神社 京都市東山区粟田口鍛冶町 松坂というのは、山科の日の岡へぬける坂道で、私が子供の頃は、未だ田園風景が残っていた。四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の 集落から、滋賀県に入る。「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。 関の清水 関蝉丸神社(下社)境内 大津市逢坂一丁目 「今やひくらん望月の駒、云々」は、八月十五日夜の日に、ここで信州の牧場から来た馬を、朝廷に引渡す行事があり、満月にちなんで「望月の駒」と 呼ばれた。・・・・・このことを詠んだ歌は多いが、中でも有名なのは紀貫之の作である。 逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀貫之 「望月の駒」歌碑 関蝉丸神社下社境内 その駒にかけて、「走り井」がひき出されて来る。この井戸は、大谷の月心寺の玄関先に、今も澄み切った水をまんまんとたたえている。 月心寺 「走り井」 大津市大谷町 この寺は比較的新しく、もと走り井餅の本舗であったのを、橋本関雪氏が邸に直し、亡くなられた後で寄進された。寺は新しいが、歴史はたいそう古く、 『枕草子』にも、「走井は相坂なるがをかし」と記してある。方々に同じ地名があったらしいが、もとはみそぎの地であったと思う。平安時代に至ると、そ のような信仰は失せ、歌枕として欠くことのできぬ名所となった。『蜻蛉日記』には、当時のにぎわいがくわしく描写されている。・・・・・ 平安以後の逢坂山は、駒と、走り井と、関の清水の三つの歌枕で成立っていた。それというのも「逢坂」という言葉に特別な語感があったからで、歌枕 とか、枕言葉の背後には、長い生活の伝統があり、そういうものをぬきにして、逢坂山の歴史は考えられない。 『更級日記』 石山詣 逢坂の関のせき風吹くこゑはむかし聞きしに変らざりけり 逢坂は、相坂、安布左可とも書き、手向山と呼ぶこともあった。峠の上で、二つの坂道が合う所から出た名称で、『日本書紀』には、神功皇后が九州 から帰って、忍熊王と決戦した時、武内宿禰が逢坂山で迎え撃った。「故、其の処を号けて逢坂と曰ふ」とあり、これは記紀によく出てくる地名付会説 であろう。が、単なる付会ともいえないのは、応神天皇と忍熊王の間におこった、皇位継承にまつわる悲劇が、おそらく当時の人々に強い記憶を植え 付けたからで、孝徳天皇の時代に、関がもうけられたことが、よけいきびしい印象を与えたと想像される。 逢坂山関址碑 大津市逢坂一丁目 木綿だたみ手向の山を今日越えていづれの野べに廬せむ吾等 坂上郎女 吾妹子は逢坂山を越えて来て泣きつつをれど逢ふよしもなし 中臣宅守 吾妹子に相坂山のはたすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも 読人知らず いずれも『万葉集』の歌であるが、最初の歌は大伴坂上郎女が、賀茂神社に詣でた後、逢坂山から琵琶湖に望み、再び山城の国に帰って詠んだ、と 詞書にある。逢坂山の歌に、木綿とか手向とか、神に関する言葉が多く使われるのは、近江と山城をへだてる重要な地点に、坂の神を祀っていたから である。坂の神は、また境の神でもあり、山の神も関の神も道祖神も、同じものを意味した。峠の語源はタムケであって、坂の神に木綿四手を供え、旅 の安穏を祈った習慣が、やがて枕言葉となり、逢坂山の別名ともなった。それは恋しい人に逢う坂であると同時に、逢うことを妨げる神聖な場所でもあっ た。そういう発想は、すべて「逢坂」という言葉から出ているが、遠い昔の忍熊王の思い出が重なっていなかったとは言い切れない。特に中臣宅守の歌 は、狭野弟上娘子との恋が露顕し、越前へ流される途中詠んだもので、逢坂山での別離の情は切実なものがあったであろう。三番目の読人知らずの 歌にも、絶望的な影はさしている。旧道を歩いてみると、実際にも暗く寂しい峠であったことが想像され、盗人ばかりか魑魅魍魎も横行したと思われる。 年を経るとともに、逢坂山を詠んだ歌は数を増すが、古代人が感じたようなきびしさ、神聖さは失われて行く。 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ 清少納言 逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かずともあけて待つとか 藤原行成 『枕草子』に現われる有名な贈答歌だが、諧謔的であるのみか、かなり露骨な表現におよんでいる。逢坂山は、身近な、親しいものになったのだ。同じ く百人一首の蝉丸の歌もよく知られている。 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 (後撰集) 流れるようなリズム感は、彼が琵琶の名手であったことと無関係ではあるまい。盲目ではなかったという説もあるが、こういう歌を作るために、目が見え る必要はないと思う。この歌から私が感じるものは、関所の喧噪をよそに、人生の無常に耳をかたむけている孤独な盲人の姿である。
峠の頂、逢坂山関所址碑の横に小公園があり、歌碑が並ぶ。 左・清少納言「夜をこめて・・・」、右・蝉丸「これやこの・・・」 逢坂山を舞台にした能には、ほかに「関寺小町」と「鸚鵡小町」があり、鎌倉時代に流布された『玉造小町壮衰書』が原典になっているが、舞台を 逢坂山に設定したのは、小野氏の流れを汲む伝承者たちに相違ない。小野小町は晩年、山科の随心院のあたりに住んでいたことが、ほぼ明らか になっており、逢坂山にいたという確証はない。まして、乞食におちぶれるほど貧乏でもなかった。山科と逢坂山は目と鼻の間で、その辺を根城に した猿女の君の末裔が、あたかも小町がのりうつったように物語ったのが、聞く人々の共感を呼んだのであろう。それは現実の小町よりずっと小町 らしく、強烈な印象を与えたと思う。 関寺跡に立つ「小野小町供養塔」 ここは、謡曲「関寺小町」の舞台である。後に登場する「関寺の牛塔」と同じ地 大津市逢坂二丁目 蝉丸神社は、峠の手前の旧道と、峠を登った所と、大津の町の入口にあるが、
蝉丸神社 大津市大谷町
関蝉丸神社上社 大津市逢坂一丁目
関蝉丸神社下社 大津市逢坂一丁目 下社の手前を左へ入った所に、長等公園がある。ここは昔から桜の名所で、かつては三井寺の境内であった。桜並木の道を北へ進むと、しぜんに 寺へ入って行ける。 見せばやな志賀の辛崎麓なる長等の山の春の気色を 慈円 おしなべて花と雲とを誘ひけり長等の山の嶺の春風 後鳥羽院 長等・琵琶湖疏水 長等山の桜を讃えた古歌は多いが、三井寺の正しい名称も、長等山園城寺という。 園城寺(三井寺) 大津市園城町 はじめ天智天皇が、この土地の豪族大友氏に命じて造らせたのを、天武天皇の時代に、大友皇子(弘文天皇)の御子、与多王が完成した。大友氏 は帰化民族の子孫で、大和の大伴氏とは家系を異にする。その名から推察すると、大友皇子を後援したのではあるまいか。園城の名が示すとおり、 ここは皇子に所属した荘園で、そういうことから考えても、彼らとは密接な関係にあったらしい。壬申の乱で、不幸な最期をとげられた後、遺族が天武 天皇に願って、菩提を弔うために三井寺を建立した。弥勒菩薩を祀ったというのも(弥勒は未来に出現する仏であるから)、若い帝の霊を慰めるためも あったと思う。 お墓(弘文陵)も三井寺の北のはずれにあり、近江とは縁の深い人物であった。 弘文天皇陵 大津市御陵町 天安二年、唐から帰朝して、この寺に移った智証大師は、新羅明神から夢の告げを受けたと伝え、弘文陵に近いお堂の中でに、その神像が祀って ある。異国風な感じのする珍しい神像で、帰化人が奉じた神であったことは疑えない。スサノオノ命の化身ともいわれ、源義光がこの神前で元服し たので、新羅三郎と呼ばれたことは有名である。 新羅善神堂 大津市園城町 金堂の向って右側に、「閼伽井屋」と名づける建築があり、その中に泉が湧き出ている。これが「御井」の名の起りである。それもただ湧いているの ではなく、ぶつぶつ音を立てて吹き出ており、太古の暗闇からひびいて来るような、陰にこもった呟きを聞いた時には、私は思わずそこに釘づけされ てしまった。
閼伽井屋 薄暗い井戸底から「ボクォッ・・」という不気味な音がする。 小関越に対して、これまで記した道を「大関越」という。旧道は、多少違った所を通っていたと思うが、だいたいは東海道にそっており、蝉丸神社の 下社(関清水明神)から少し下った所に、「牛塔」と呼ばれる大きな石塔が建っている。 関寺の牛塔 大津市逢坂二丁目 このあたりは昔、関寺(世喜寺とも書く)のあった所で、来歴がはっきりしないのは、関の神社に付随する神宮寺であったのだろう。草創の時、天竺の 雪山(ヒマラヤ)から、牛乳を将来し、金鶏の香合に入れて納めたので、牛塔と名づけ、そこを鶏坂とも呼んだという。が、もともと牛とは縁のある塔で、 恵心僧都が関寺を再興した時、迦葉仏が白牛に化身して手伝い、工事の終了とともに死んだ、その牛を弔うために造ったともいわれている。もとはと 言えば、材木の運搬に使役した牛を、信心ぶかい人が、迦葉仏の化身だと夢に見て、いいふらしたにすぎないが、藤原道長や頼道まで、拝みに来る という騒ぎであった。ただそれだけの話とはいえ、こんな美しい塔が建ったことは、それこそ嘘から出たまことといえるであろう。石塔寺の三重の塔には まだ朝鮮の影響が見られたが、この宝塔は完全に和様化され、力強い中に暖かみが感じられる。淡海の国のもう一つの枕言葉を「石走る」というのも、 石に恵まれていたことの形容かも知れない。 大関越は、一応ここで終るが、読者にはご迷惑でも、もう一度大谷まで引返して頂きたい。というのは、先日月心寺で、珍しい大津絵を見たからである。 『近江與地志略』には、「大津大谷の土人がきて之を売る」とあり、「追分絵」とも呼んだというから、この辺の土産物屋で扱っていたのであろう。ふつう 初期のものは、二枚つづり(紙が二枚はいである)になっているが、月心寺のそれは四枚ついてあり、構図も彩色もたいそう美しい。橋本関雪氏の遺愛 の品ということで、大津絵が生れた場所で見ると、ひとしお感慨が湧く。 大津絵 「釈迦涅槃図」 白洲正子展「神と仏、自然への祈り」図本より借用 大津絵の筆のはじめは何仏 (嵯峨日記) と、芭蕉もいっているように、初期のものは仏画が主で、この涅槃図も極く古い方に属する。諧謔的なおもしろさと軽みが、俳句に通じるのはいうまで もないが、涅槃の道具立ては全部揃っているのに、この絵から受ける感じは、のどかで、楽しい。一緒に行った編集者さんが、「まるで釈迦の昼寝で すね」といったが、けだし名言であろう。だが、よく考えてみると、そういうものこそ涅槃の真髄であり、大津絵がいわんと欲したもではなかったか。一 方に比叡山という、仏教王国をひかえていたために、その裏側の谷あいにこのような仏画が昔のように発生した、そういうところにも近江の性格の一 端が、よく現われていると私は思う。 ・・・ 芭蕉の俳句には、万葉の古から、語りつぎ言いついだ人々の思いがこもっており、彼が近江を愛したのも、そういうものとつながりによる。元禄二年四 月には、幻住庵に入り、ついで大津の無名庵へ移った。 石山の奥、岩間のうしろに山有、国分山と云。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。麓に細き流を渡りて、翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡 宮たたせたまふ。 (幻住庵記) 幻住庵の跡は、大津の町はずれから、西へ入った小高い岡にあり、正面には石山寺の建つ伽藍山を望み、孝謙天皇の保良の宮跡も近い。「岩間の うしろ」ではなく、「まえ」というべきであろう。「翠微に登ること三曲二百歩」というのは、現在もそのとおりで、羊歯の美しい山道である。芭蕉がここを選 んだのは、俳人の菅原曲水子の伯父が住んでいたからで、亡くなった後、空家になっていたのを借りうけたらしい。「卯月のはじめいとかりそめに入し 山の、やがて出じとさへおもひそみぬ」と書いているのは、静かな環境がよほど気に入ったと見える。 さすがに春の名残も遠からず、つつじ咲残り、山藤松に懸て、時鳥しばしば過る程、宿かし鳥の便さえあるを、きつつきのつつくともいとはじなど、そ ぞろに興じて、魂呉楚東南にはしり、身は瀟湘洞庭に立つ・・・・・・ (幻住庵記) などと、うきうきした心地さえ見せ、日枝、比良の高嶺から三上山、田上のあたりの眺望まで、くわしく書き残している。この辺は当時とあまり変ってはい ず、近江の景色を思い浮べながら読むと、ことさら趣が深い。そして最後に次の句が来て、「幻の住処」は磐石の如くおさまる。 先たのむ椎の木も有夏木立 景色は昔のままだが、幻住庵跡は変った。それはもう「跡」ですらなく、かりそめの住居でもない。山上には新しい庵室が建ち、何代目かの椎の木も あって、舞台装置は完全にととのっている。谷を降りた所には、「とくとくの清水」というのもあるが、吉野ならともかく、ここでは場ちがいであろう。変っ たともいえるし、変らなさすぎるともいえようが、何から何まで揃っているのは、興ざめなことおびただしい。第一、俳句の精神にもとる。牛塔や藤尾の 石仏を見てもわかるとおり、伝統をうけつぐとは、過去にしがみつくことではなく、あくまでも前向きの姿勢を崩さないことだ。それはひとえに古人へ対 する愛情の深さによる。西行の歌と、それに則った芭蕉の句を並べてみる時、そこには時代を超越した友情と、血脈が、とくとくと流れているのを聞く 思いがする。 とくとくと落つる谷間の苔清水汲みほすほどもなき住居かな 西行 露とくとくこころみに浮世すすがばや 芭蕉 幻住庵 大津市国分二丁目 そして、「場ちがい」の ちなみに、 吉野の「西行庵」と「とくとくの清水」は、 |
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近江路 逢坂越 大津の京 紫香楽の宮 日枝の山道 比良の暮雪 あかねさす紫野 沖つ島山 鈴鹿の流れ星 伊吹の荒ぶる神
白州正子 近江山河抄 逢坂越