白洲正子
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全文ではありません。白州正子が訪れた地を写真紹介するための抜粋です

紫香楽の宮

 

はじめて信楽を訪ねたのは、十年ばかり前のことである。・・・

ちょうど秋の暮のことで、山は紅葉に染まり、その間を陶土そのままの真白な道が、冴え冴えと通っていたのを思い出す。そして、いつしか信楽の

焼きものと景色は重なり合い、その二つを切り放しては考えられなくなった。壷を眺めていると、山里の秋が目の前に浮んでくる、というより、私は

既にその中に居る。鮮やかな紅葉の色も、自然釉の緑も、灰をかぶった所まで、なんとあの白々とした野中の道に似ていることか。それは信楽で

しか生れ得なかった焼きものであり、自然が造り出した傑作のように思われる。

「信楽」といって、たぬきの写真を貼るようでは、まったく焼きものに疎いということ

白洲正子が京都の骨董屋で見つけた古信楽の大甕

紫香楽の宮跡は、信楽の町からは東北の、内裏野と呼ばれる所に見出された。東に飯道山、西北に金勝山、阿星山などをひかえた高燥の地で、

松林の中に当時の礎石が整然と並んでいる。最近は柵が作られたというが、私が行った頃はかこいもなく、聞えるものは颯々たる松風の声のみ、

実に爽やかな環境であった。

紫香楽宮址   甲賀市信楽町黄瀬・牧

聖武天皇の天平十七年(745)に遷都した紫香楽宮の跡として、大正15年に史跡指定された。

その後、平成12年の発掘調査で、ここから北2キロにある信楽町宮町の宮町遺跡が

実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、この遺跡は、甲賀寺の跡、または、近江国分寺の跡である可能性が高くなった。

石部からこのあたりへかけては、「美し松」と呼ばれる原生林やがあり、みごとな赤松林がつづいている。土に恵まれただけでなく、焚きものにも事を

欠かなかったのが、陶器を発達させたゆえんであろう。近くには須恵器の窯跡もあって、古くから開けていたことがわかる。道は奈良・京都から何本も

通じており、中でも奈良から恭仁京を経て、朝宮へ出る街道はもっとも古く、天平十四年に造られた。聖武天皇は、恭仁京から信楽への往復に、朝宮

で一夜を明かされたのだろうか、宮尻という地名も残っている。

  木がくれに茶摘みも聞くかほととぎす 

と、芭蕉が謳ったのも、この宮尻であったという。今も茶畑が多く、山の上から河原の中までせり出しているのは、珍しい眺めである。お茶も肥沃な平

野より、陰湿な山地で育ったものがいいそうで、朝宮とか政所とか、近江には一般にあまり知られていない茶所が多い。陶器の中でも大物を得意とし

ているのは、このことと無関係ではあるまい。石はぜのある荒い土は、空気の流通がよくて、お茶を保存するのに適していると聞く。

 

岩谷仙禅寺  甲賀市信楽町上朝宮 

「朝宮茶発祥之碑」と、芭蕉「木がくれて茶摘も聞くやほととぎす」の句碑

朝宮と宮尻のあいだの道路沿いにも、芭蕉「木がくれて・・・」の句碑

大津の京と同じく、この度もそれは失敗に終った。が、信楽において、大仏建立という、世紀の事業が発願されたことは、銘記すべきである。天平十六年

一月には実行に移され、甲賀の寺(信楽)に大仏の骨柱が建ち、「天皇親から臨みて、手づからその縄を引く」(続日本紀)、簡潔な文章だが、喜びにあふ

れた天皇の、ひたむきな姿が目に浮ぶ。

が、事態は楽観を許さなかった。紫香楽の宮の造営ははかどらず、しばしば火災に見舞われた。大津の京と同じ様相を呈しはじめるのだ。安積親王が亡く

なったのは、その頃のことである。藤原仲麻呂が毒殺したともいうが、聖武天皇の長子で、十七歳であった。大伴家持が、挽歌を六首も残しており、魅力の

ある青年であったらしい。

  逆言の 狂言とかも 白栲に 舎人装ひて 和豆香山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべも無し

  愛しきかも皇子命のあり通ひ見しし活道の路は荒れにけり

  大伴の名に負ふ靭負ひて万代に憑めし心何処か寄せむ

いずれも通り一ぺんの挽歌ではなく、家持の悲しみが滲み出ている。毒殺されたという噂も、まんざら嘘ではないことがうかがわれるが、斜陽貴族の大伴氏

としては、自分の恨みもふくめて、さぞ口惜しかったことだろう。大伴氏と親しかったことが、殺される原因になったとすれば、尚さらのことである。お墓は、こ

こにも詠まれているように、恭仁京と信楽の間の和束にあるが、信楽への往復の途上、天皇はどのような思いで眺められたことか。紫香楽の宮を断念され

たのは、息子の死が直接の原因ではなかったにしても、翌十七年の五月には、早くも平城京へ還御になる。連れ戻された、という方が適切であろう。その

日、「信楽に人なく、火未だ消へず」と、『御伝』はさりげなく記している。

安積親王墓  京都府相楽郡和束町白栖  

かくして、紫香楽の宮は、三年足らずで消滅し、大仏も奈良へ移される。どの程度に移されたか、史書には明らかでないが、天皇親から綱を引かれた

「骨柱」は、そのまま運んだのではなかろうか。大仏とともに、良弁も、奈良へ移転したことはいうまでもない。

伝記によると、聖武天皇が大仏建立を発願された時、奈良の東山の金鐘寺で、金鷲行者という人が、執金剛神を祀っていた。その祈る声が、宮中ま

でひびいたので、尋ねてみると、仏教興隆のため、一心に祈っているが、自分一人の力ではおぼつかない。願わくは、帝王の徳をもって、伽藍を建立

し給えと勧めたので、天皇ははじめて思い立たれたという。学者は認めないかもしれないが、金鐘寺は金勝寺で、金鷲行者は金粛菩薩に違いない。

名前が似すぎているだけでなく、東大寺を建立したのが動かしがたい証拠である。

良弁には、またこういう逸話もある。彼は幼い時、鷲にさらわれ、二月堂の「良弁杉」の根元に捨てられていたのを、義淵僧正が拾って育てたという。

そこで「鷲」と結びついたのかも知れないし、昔はいろいろな当字を用いたから、金粛を金鷲と書くこともなかったとはいえない。また読経の声が宮中

にまでひびいたというのは、彼の名声が天聴に達し、やがて造東大寺司に任ぜられたことを意味するが、もしかすると、それは三月堂ができた時の、

縁起を語ったものかも知れない。金勝寺の頂上には、平安時代の作ではあるが、執金剛神と同じような忿怒像が祀られており、山岳信仰と関係が深

かったことがわかる。金勝山は、信楽の西北に当り、紫香楽の宮の鎮護の寺であった。名前や伝承を、方々持ち歩くのは日本人の習性で、この場合

も、大仏や良弁と一緒に、奈良まで運ばれて行ったのではないか。執金剛神の出所も、そう考えると怪しくなる。そこまで断定する気は私にはないが、

三月堂は、いわば金勝堂の再生であり、奈良の東山を、金勝山に見立てたぐらいのことは言えると思う。

金勝寺   栗東市荒張

金勝寺 軍荼利明王立像

古代人の思考は、いつもそんな風に、根元のところへ還りたがる。一種の祖先信仰であり、若がえりの思想であるが、この二つは矛盾するものでは

ない。東大寺の元は三月堂にあると説く人もいるが、そうではなく甲賀の寺にある。これははっきりしていることだ。今もいったように、その前身は金

勝山にあり、甲賀の寺は、以上のような手つづきを経て、日本随一の寺院に生れ変った。聖武天皇の悲願は、失敗に終ったわけではなく、移植され

はじめて開花したといえるであろう。

先日私は、良弁の足跡を辿ってみた。わざとしたわけではないが、湖南を歩けばしぜんそういう結果になる。その時は京都から、気の向くままに見物

しながら信楽へ向った。

最初に現われるのは石山寺で、東大寺を造営するに当り、良弁はここを建築事務所とし、近江で木材を集め、宇治川経由で奈良へ運んだ。その頃は

まだ寺ではなく、石山院と呼んだ。その名が示すとおり、全山石の山で、本尊の如意輪観音が岩上に安置されているのは、良弁の持仏(やはり如意

輪観音)が、岩にくっついて離れなかったという伝説に基づいており、巨巌信仰の聖地でもあったことを語っている。

石山寺   大津市石山寺

山上からは、田上、金勝の山々が見渡され、東大寺の木材や金属が、石山院へ集結した、当時の有様が彷彿される。眼下には瀬田川が悠々と流れ

ており、古代の人々の構想がいかにすぐれていたか、どれほど緻密な計画が練られたか、感嘆せずにはいられない。東の方には、三上山から、岩根

へかけての丘陵が望まれるが、正福寺、菩提寺、少し離れて安養寺など、良弁の草創による寺院が多い。菩提寺の石塔については、「近江路」の章

で述べたが、金勝寺を大菩提寺といtったのに対して、少菩提寺と呼んだと聞く。石山、石部、岩根など、良弁には石と縁のある地名がつきまとうが、

彼が山岳信仰の行者であったこと、土木の親方であったことも無関係ではあるまい。が、なんといっても美しいのは、東寺(長寿寺)よ西寺(常楽寺)

であろう。

東寺(長寿寺)・山門   湖南市東寺

東寺(長寿寺)・本堂

紅葉の長寿寺山門

西寺(常楽寺)・本堂   湖南市西寺

西寺(常楽寺)・三重塔

ことに東寺のたたずまいは優雅である。楓と桜並木の参道を行くと、檜皮葺の屋根が見えて来て、赤松林の中に鎮まる鎌倉時代の建築は、眺めて

いるだけで心が休まる。松林をへだてて、阿育山の頂が見え、東寺・西寺の名称は、この山に対して名づけられたことがわかる。そのはるか南に信

楽が位置するのは、紫香楽の宮の鎮護の意味を兼ねていたと思う。

・・・

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